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カイロネイアの戦い

前338年、マケドニアのフィリッポス2世がギリシアのアテネ・テーベ連合軍に勝利した戦い。

 前338年、ギリシアのカイロネイア(ケーロネアと表記することもある)におけるマケドニアフィリッポス2世とギリシアのアテネテーベ連合軍の戦い。アテネ・テーベ連合軍は善戦し、とくにテーベの神聖隊(神聖部隊、エパミノンダスの項を参照)が奮戦したが、長槍を使った重装歩兵・密集部隊と騎馬部隊を併用した戦術をとるマケドニア軍に敗れた。なお、カイロネイアはギリシア本土、アテネ北西のボイオティアにある町。エジプトのカイロではないので注意。

戦いの詳報

(引用)前338年8月2日、ボイオティア地方の都市カイロネイアの東に広がる平原で、ギリシア・マケドニア両軍の決戦が行われた。マケドニア軍の右翼はフィリッポスが指揮する近衛歩兵部隊、中央には密集歩兵部隊、左翼には(息子の)アレクサンドロスが率いる騎兵部隊、総兵力は軽装兵を含めて3万4000。18歳にして初めて参加する正規軍同士の本格的な戦争で、アレクサンドロスはマケドニア軍の華である騎兵を任されたのだ。フィリッポスが息子に寄せる信頼の深さがうかがえる。対するギリシア軍は、フィリッポスに対抗する左翼にアテネ軍、中央に同盟諸国の部隊、アレクサンドロスに向き合う右翼にはテーベを中心とするボイオティア軍が布陣した。軽装兵を含めた総兵力は3万6400。とりわけ最右翼にはテーベ軍で最強の神聖部隊がいた。
 戦闘は、まずフィリッポスが歩兵部隊をゆっくり後退させることから始まった。正面のアテネ軍がこれを追撃しようと前進する。フィリップスはアテネ軍の戦列が乱れたところで反転し、これを打ち破った。中央のギリシア人部隊はアテネ軍との間隔を空けないようにと左へ移動し、右翼のボイオティア軍もこれに倣った。このためテーベの戦列の至る所に隙間が生じ、そこへアレクサンドロス率いる騎兵部隊が突入、神聖部隊の側面を抜けて背後に回ることに成功した。神聖部隊との交戦は激烈をきわめた。テーベ人の共同墓地からは254人分の遺骨が発掘され、これらすべて神聖部隊の戦死者と見られている。300人中、生存者がわずか46人という壊滅的な打撃である。
 こうしてカイロネイアの会戦は、マケドニア軍の圧倒的な勝利に終わった。後退戦術による敵の戦列の攪乱とその撃破、相手戦列に生じた隙間への騎兵の突入、これらはすべてフィリッポスの思い描いた通りであり、かれの卓越した指揮能力を証明している。こうした戦法は、東方遠征でアレクサンドロスがそっくり採用することになろう。いっぽうのギリシア軍は、数では優位にあったが全体を統括する識見を欠いていた。アテネ人だけで戦死者は1000以上、捕虜は2000にのぼった。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.23-24
 フィリッポス2世はスパルタを除くギリシアのポリス連合であるコリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主と成り、さらに東方のペルシア帝国遠征を意図していたらしいが、カイロネイアの勝利の2年後に部下に暗殺され、その意図は子のアレクサンドロスに継承された。

カイロネイアの戦いの後

 カイロネイアの戦いに勝利したマケドニアのフィリッポス2世は、ギリシアの各ポリスとの間でコリントス同盟と総称される個別条約を締結し、形式的な独立は認められたがたがいに抗争することはいっさい禁止され、マケドニアの事実上の宗主権を認めた。しかし、スパルタだけはマケドニアの覇権を認めず、唯一同盟に参加しなかった。このコリントス同盟に拠って、マケドニアのギリシア支配が実質的に実現した。
 カイロネイアの戦いで勝利したマケドニアのフィリッポス2世について、ローマ時代(2~3世紀)の人、アイリアノスが伝えるのは次のような見方である。
(引用)カイロネイアの戦いに勝利を収めた後、その戦果にピリッポス(フィリッポス2世)はもとより全マケドニア人は意気高いものがあった。ギリシア人の方はすっかりピリッポスに怖気(おじけ)づき、都市ごとに自ら進んで彼に身柄を委ねた。そのようにしたのはテーバイ(テーベ)人、メガラ人、コリントス人、アカイア人、エリス人、エウボイア人、それにアクテ(アッティカ地方)に住むすべての人々であった。しかしながら、ピリッポスは彼らとの協定を守らず、全員を隷属させたのは、正義にも法にも悖(もと)ることであった。<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.192>
 もっともアイリアノスが伝えるところでは、フィリッポス2世はカイロネイアの戦いの勝利で驕ることがないように、毎朝家来に「ピリッポス、あなたは人間ですぞ」と叫ばせたという話も伝えている。
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書籍案内

森谷公俊
『アレクサンドロスの征服と神話』
2007 興亡の世界史1
後に講談社学術文庫