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ギリシア悲劇・喜劇

古代ギリシアで盛んであった演劇。前5世紀のアテネで三大悲劇詩人の他にも喜劇作者が多数輩出し、市民の娯楽として、祭礼に円形劇場で上演された。

 古代ギリシアのポリスには、海外植民市も含めて、それぞれ円形劇場を持ち、盛んに演劇が上演された。その多くは伝統的な宗教劇であったようだが、ギリシア悲劇はアテネだけで上演されていた。特にペルシア戦争後にアテネ民主政(デモクラシー)が繁栄したことと無関係ではない。デモクラシーのもとで、市民の自由と平等が実現したことで、人間の運命の残酷さや愛憎の感情の交錯を冷静に見つめる余裕が生じたのではないだろうか。<岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』2003 岩波ジュニア新書 p.32-33>

アテネの演劇

 前5世紀のアテネで、悲劇を初めとする演劇が盛んであった事情については、次の手短な説明がわかりやすいので引用する。
(引用)紀元前5世紀のアテネには、アイスキュロスソフォクレスエウリピデスの三大悲劇詩人と喜劇のアリストファネスがでて、ギリシア演劇を完成した。彼らの作品はディオニュソス神の祭典での競演のために創作され、市民のあいだから選挙と抽選の二重の手続きで選ばれた審判員の秘密投票で優劣の順位が決められた。ギリシア劇には役者のほかに大勢の歌舞、合唱の隊員が必要であるが、この隊員や役者の衣装の調整、練習期間の給養という金のかかる仕事(合唱隊奉仕)には、富裕市民が輪番で奉仕した。芝居見物が市民にとっての最大の娯楽であるとともに一般教養を高める機会であったことは、たとえば喜劇が言論の自由に恵まれておこなった辛辣な政治批評や人物評論を一考すればたりよう。かような娯楽をすべての市民にわかちあたえるために、アテネ当局(ペリクレス)は観劇入場料(テオリコン)を市民の誰にでも支給するという文化政策を始めた。その主旨は立派だったが、のちにはこれから、市民大衆のあいだに国家による享楽という悪い傾向が生まれてくる。<村川堅太郎ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1997 講談社学術文庫 p.103>

Episode ディオニュソス祭の競演

 古代アテネの国家的な祭りの一つとして、毎年3月にディオニュソス神をまつる祭りが行われていた。正式には大ディオニュシア祭という。民主政治が確立した前5世紀のペルシア戦争の後の時期に最も盛んになった。ディオニュソス神は別名バッカスともいう酒の神であるが、同時に演劇の神でもあり、4日間の祭りの期間に、まず3日間は一日に一人の悲劇作者が三本の悲劇と1本の滑稽劇を上演し、残りの1日で一人の悲劇作者が1本ずつ、5人分が上演された。これらは競演の形をとり、それぞれ優劣が決められた。

ギリシア悲劇の変化

 ギリシア悲劇の上演形態には次のような変化があった。古い時代にはコロス(合唱舞踏団)だけで劇を終わりまで演じていたが、後にコロスに少しの間休息を与えるために、テスピスが一人の俳優を案出し、ついでアイスキュロスが二番目の俳優を、そしてソフォクレスが三番目の俳優を案出して、悲劇は完成された。<ディオゲネス=ラエルティウス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』上 岩波文庫 p.290>
 また、ソフォクレスは、悲劇がそれまでは三本を一組として構成されていた(上掲)ものを、同時上演の三つの劇をそれぞれ完結した独立の作品とした。それによって一作品の劇的内容が充実することとなった。<ソポクレス/藤沢令夫『オイディプス王』岩波文庫 解説 p.118>
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