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アタナシウス/アタナシウス派

イエスの神性を認める教義を主張してニケーア公会議で正統とされ、さらに神とイエスと精霊の三位一体説をキリスト教の正統教義として体系づけた。

 キリスト教の盛んであったローマ時代のエジプトの、アレクサンドリアの司教であったアタナシウスは、イエスは神の子であり本質において神性を持つと主張し、イエスの神性を否定して人性とみるアリウス派に反対した。両派の対立は深刻となったため、325年にコンスタンティヌス帝によってニケーア公会議が開催され、アタナシウスの説がローマ教会の正統の教義とされた。アタナシウスは初期キリスト教の教父の一人とされている。

アタナシウスの教義

 アタナシウスの説いたことは、「哲学的、論理的であろうとなかろうと、キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質である」とということであった。論理的ではないけれども、これはキリスト教の伝統的なキリスト観であり、多くの素朴なキリスト教徒たちは、自分たちの救いを神なるキリストに託していたのであった。そして、イエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではない、というアリウス派とするどく対立した。ニケーア公会議で激しい論争の結果、正統とされ、後にさらに神とイエスを一体と見るこの考えに、聖霊にも神性を認める考えが結びついて、後に三位一体説が出来上がる。

Episode その後のアタナシウス

 実はニケーア公会議のとき、アタナシウスはわずか30歳ぐらいで、特に重要な人物ではなかった。会議の後にアレクサンドリアで司教となった。ところがローマはその後、アリウス派が勢いを盛り返し、皇帝も妥協に傾いた。それを知ったアタナシウスは、正統信条の擁護のため敢然と「世界を敵として」戦闘を開始した。以来七十七歳の生涯に五度も追放をうけ、帝国の東西に流浪した。エジプトの荒野の庵や、アレクサンドリアの民家に潜伏し、抵抗を続け、ニケーア公会議の決議をよりどころに、次第に同志を増やし、国家の教会に対する干渉に反対した。ようやくその死後の381年に召集された第一コンスタンティノープル公会議でアタナシウスの三位一体説が正統信条として確定した。後にカトリック教会の信条は「アタナシウス信条」と言われるようになった。<高橋秀ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.337 および ギボン『ローマ帝国衰亡史』3の第21章 ちくま学芸文庫p.334~ に詳しい> 
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1章3節 ク.迫害から国教化へ