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コンスタンティヌス

4世紀初頭のローマ帝国皇帝。帝国の分裂、混乱を克服し専制君主政を確立し、キリスト教を公認。コンスタンティノープルに遷都し、強大な帝国を再建したが、その死後、再び帝国は分裂傾向に陥った。

コンスタンティヌス大帝

コンスタンティヌス大帝
ローマ カピトリーニ美術館

 ローマ帝国の皇帝で在位は306~337(副帝時代含む)。帝国後半期の最も重要なローマ皇帝であり、正式にはコンスタンティウス1世、「大帝」といわれる。3世紀中頃の軍人皇帝時代の混乱を収拾したディオクレティアヌス帝に次いで、その創始した専制君主政を確立したが、一方ではその四分統治による対立の中で勝ち抜き、単独帝政に戻した。ローマ帝国の皇帝専制政治を再建したが、新都コンスタンティノープルを建設してローマから離れ支配の重点を東方に移した。また、313年にはキリスト教を公認するという大転換を図り、325年のニケーア公会議では教義の統一をはかった。しかしその死後、皇帝位は再び分裂し、キリスト教公認も一時期撤回されるなど混乱の時期を経て、4世には帝国は東西に分裂する。

ローマ帝国の統一の再現

 ディオクレティアヌス帝の四分統治の際に西の副帝となったコンスタンティウスの子。父はドナウ沿岸属州の下層農民出身の軍人で、母ヘレナは小アジアの同じく下層民出身でキリスト教徒だった。軍人として頭角を現した父と同じく、コンスタンティヌスも軍人として育った。父が西の副帝になると、人質のようなかたちで東の正帝ガレリウスのもとで、都ニコメディアで幼年時代を過ごした。ディオクレティアヌス帝の死後、父コンスタンティウスは西の正帝となったが、306年に死去、コンスタンティヌスは配下の軍隊に推されて正帝と称した。しかし、他にも正帝を称したものが三人あり、西の帝国は激しい内戦が生じた。コンスタンティヌスは、ローマで皇帝を称していたマクセンティウスを攻め、312年にミルウィヌス橋の戦いで勝ってローマに入城し、元老院から正帝として承認された。そのときに建てられたのが有名なローマのコンスタンティヌス帝の凱旋門である。

キリスト教公認と帝国統一

 コンスタンティヌスは、その翌313年、もう一人西の正帝を名のっていたリキニウスとミラノで会談し、同盟関係を結ぶとともにキリスト教を公認することを取り決めた。リキニウスはただちに東方に向かい、東の皇帝を攻撃して退位させ、東の正帝として即位したので、これが世に言う「ミラノ勅令」である。しかし、リキニウスはまもなくキリスト教の否定に転じ、キリスト教徒を迫害するようになった。そのため西の皇帝コンスタンティウスと東の皇帝リキニウスは対立することとなり、幾度か講和が試みられたものの結局決裂し、324年、バルカン半島のアドリアノープルで激突、コンスタンティヌスが勝利してローマ全土にキリスト教は公認されることとなった。
アドリアノープルの戦い 現在のトルコの西端、バルカン半島側のエディルネは、ローマ帝国最盛期の皇帝ハドリアヌスが造った都市ハドリアノポリスが起源で、後にアドリアノープルと呼ばれた。324年7月3日、この地で古代史の中でも最大の戦争が行われた。相対したのはいずれもローマ皇帝を名のる二人、一人は帝国の西半分を統治していたコンスタンティヌス1世で12万の歩兵と1万の騎兵を動員し、もう一人は東半分を統治していたリキニウスで歩兵15万、騎兵1万5千を擁していた。長時間にわたった戦闘は、自らも傷を負いながら奮戦したコンスタンティヌスの勝利となった。退却したリキニウスはビザンティオンから西へボスポラス海峡を渡りクリュソポリスに陣を布いた。コンスタンティウスは放棄されたビザンティオンを確保するとクリュソポリスへ向かい、9月18日の決戦で決着をつけ、リキニウスは捕らえられた後処刑された。こうしてコンスタンティウスはローマ帝国の単独皇帝となった。また、リキニウスはミラノ勅令を発した後、キリスト教徒迫害に転じていたから、コンスタンティヌスの勝利は、キリスト教公認が確定した意味ももっていた。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.51-52>

コンスタンティノープルへの遷都

 324年にローマ帝国の統一を再建したコンスタンティヌス帝は、330年には新都をビザンティオン(ビザンティウム)の地に建設、コンスタンティノープルと命名した。コンスタンティノープル(コンスタンティノポリスとも言う)は「第二のローマ」といわれ、後には東ローマ帝国の都として長く継承されることになる。
 また、租税収入の安定を図って、コロヌスの移動を禁止して身分を固定化し、地中海交易を活発にするために基軸通貨としてソリドゥス金貨を鋳造発行した。

キリスト教政策

ミラノ勅令 西正帝としてローマに入った翌年の313年、東正帝リキニウスとミラノに会見して、ミラノ勅令を出し、宗教の自由を認めキリスト教を公認した。これによって帝国によるキリスト教迫害は終わり、教会には経済的援助も与えられた。
ニケーア公会議 キリスト教は長い迫害の時代を経て、ようやく公認され、迫害されることはなくなったが、すでにイエス=キリストが去ってから300年以上が経過し、その教えは使徒たちを通して伝承されてきたものの、狭義の解釈をめぐって異なる意見も生まれていた。特にイエス自身の神性を認めるかどうか、が重大な争点として浮かび上がっていた。そこで、コンスタンティウス帝は、自らその問題の解決に乗り出し、325年にニケーア公会議を主催して、キリスト教の教義の一本化を図り、アタナシウス派を正統、アリウス派を異端とした。コンスタンティヌス帝は、ネロ帝の時に殉教した使徒ペテロの墓所(礼拝所)に教会を建設することを命じ、それがサン=ピエトロ教会(大聖堂)の基となった。

コンスタンティヌス帝の政治の意義

 歴代皇帝で最も長い30年(副帝時代を含む)の在位期間であったが、ローマ帝国の皇帝の性格はすでに帝政前期の元首政とはまったく違ったものになっていた。政治形態では共和政の伝統は形だけとなって皇帝に独裁的な権限が集中し、専制君主政(ドミナートゥス)が確立した。また、キリスト教が新たな国家理念とされるようになり、何よりも「ローマ帝国」といいながら、都が東方のコンスタンティノープルに遷ったことによって帝国の基盤はギリシア、東地中海、小アジアなどの東方に比重が動いた。

Episode この印によりて汝は勝つ

 312年、コンスタンティヌス帝がマクセンティウムとローマのミルウイヌス橋で戦った時、天に燃える十字架の影と、「この印によりて汝は勝つ」という4語が空中に浮かぶのを見て、十字架を押し立てて戦ったところ、勝利を得た。このことがコンスタンティヌス帝がキリスト教の信仰に入るきっかけとなったという。
 この伝説に対して、イギリスの歴史家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で詳しく論じ、疑問を呈している。彼は最初のキリスト教皇帝とされるが、彼自身が洗礼を受けたのは死の直前であり、ミラノ勅令の頃は明確な信仰を持つにはいたっていなかった。事実、その凱旋門には、信仰の力とは記されてはおらず、むしろ太陽神が描かれている。ギボンも言う通り、後の教会史家エウセビオスの『コンスタンティヌス大帝伝』などで述べたのであり、それまで罪人の死刑に使われていた十字架が皇帝の勝利を導いたと当時考えらるというのは無理がある。<ギボン、中野好夫訳『ローマ帝国衰亡史』3 p.225~ など>
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ノートの参照
第1章3節 カ.西ローマ帝国の滅亡
書籍案内

ギボン/中野好夫訳
『ローマ帝国衰亡史 3
コンスタンティヌス
とユリアヌス』
ちくま学芸文庫