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アフガニスタン内戦

1979年、ソ連が共産政権を建て直すためにアフガニスタンに介入、反発したイスラーム教勢力と戦闘が始まった。89年にソ連軍は撤退したが、部族間の対立抗争が激化し、内戦の様相となった。1992~94年にイスラーム原理主義に立つターリバーンが台頭、96年に政権奪取した。

アフガニスタンでは、アフガン王国がイギリスの保護国から1919年に独立を回復し、ザーヒル=シャーの長期政権の後、1973年にクーデターによって王政は倒され共和国となった。その後、ソ連の影響を受けた共産主義勢力(人民民主党)が台頭し、1978年に社会主義政権が成立したがアフガニスタンに共産政権が成立したが、内部に部族対立などをかかえ、安定しなかった。
 1979年にはソ連のブレジネフ政権は、共産党政権を維持するためにアフガニスタン侵攻を実行して、反政府勢力の排除図った。しかし反政府イスラーム勢力は激しく抵抗し、鎮圧することができなかった。また、アメリカは、イスラーム勢力ゲリラに対して武器援助を行った。政府=ソ連軍とイスラーム勢力ゲリラの内戦は長期化し、農村の約半数が荒廃し、多くの死者とともに難民が発生した。難民の多くは、パキスタンとの国境を越え、ペシャワール付近に殺到、パキスタンは苦慮することとなった。
 10年近く内戦が続く中、ようやく国連の仲介もあって政府と反政府ゲリラとの間の講和が成立し、それんのゴルバチョフ政権も、1988年に撤退を決定した。その背景には、ソ連の停滞は政治・経済の行きづまりとなって深刻化し、その状況を打開する必要を政権が意図したことにあった。

ソ連の崩壊の影響

 ソ連は撤退後もナジブッラー政権に対し軍事・経済援助を続け、反政府側はアメリカとイスラーム諸国から支援され、対立が続いた。しかし、1991年にソ連が崩壊したこと受けてアフガニスタンの共産政権も1992年に倒れ、ゲリラ勢力による暫定政権が樹立され、国名もアフガニスタン=イスラーム共和国に改められた。

部族対立の激化とイスラーム原理主義の台頭

 しかしゲリラ勢力は、北部のタジク人を中心としたイスラーム協会(指導者がラバニ、軍事指導者が「パンジシールの獅子」と恐れられたマスード司令官で彼は2001年9月、アルカーイダのメンバーの自爆テロで殺害された)、パシュトゥーン人を中心としたイスラーム原理主義集団イスラーム党(指導者はヘクマティアル)、さらに北部のウズベク人を組織したドスタム将軍などおよそ8派が対立し、92年~94年にかけて首都カーブルをめぐって激しい内戦となった。1994年、突如イスラーム原理主義を掲げるターリバーンが台頭、1996年に首都カーブルを攻略して権力を握った。

ターリバーン政権とその崩壊

 タリバーン政権は極端な原理主義改革を推し進め、仏教遺跡であるバーミヤンの石仏像を破壊するなど国際的な非難を浴びた。2001年9月の同時多発テロが起こると、アメリカのブッシュ大統領はその実行グループ、ビン=ラーディンらアルカーイダが潜伏しているとしてアフガニスタンを攻撃してタリバーン政権を倒した。
 アフガニスタンでは国際連合の調停で2002年に暫定政権が成立、その後大統領選挙が実施されてカルザイ大統領が当選、安定化を進めているが、なお内部に民族対立を含み緊張が続き、ターリバーンの残存勢力もかなり活動を続けている。 → 現在のアフガニスタン 
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