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ターリバーン(タリバン)

1989年のソ連軍撤退後に急速に台頭したアフガニスタンのイスラーム教原理主義者が組織した武装組織。96年に権力を握り、極端な徹底した原理主義にもとずく宗教国家建設を目ざす。2001年の同時多発テロの首謀者と目されたビン=ラーディンが潜伏したとして、アメリカ軍が侵攻したため、首都から排除され政権を失った。代わったガニ政権の基でアフガニスタンは安定せず、ターリバーンは次第に勢力を盛り返し、アメリカのバイデン政権が撤退したことを受けて反攻に転じ、2021年8月、カブールを制圧、政権を復活させた。

 ソ連軍が撤退した後のアフガニスタン内戦の中で急速に台頭し、1996年にアフガニスタンの権力を握ったイスラーム教スンナ派の原理主義武装集団。
 ターリバーン(タリバン、タリバーンなどとも表記)はイスラーム教の神学校(マドラサ)の生徒(神学生)を意味する「ターリブ」の複数形。ただし実際に神学生であるのはごく少数で、そのメンバーはいずれもパキスタンのアフガニスタン難民キャンプで育ったパシュトゥーン人の24、5歳以下の青年であった。1994年7月、南部の古都カンダハールに忽然と現れて地元の武装勢力を排除、翌年には西部のヘラートを押さえ、96年には首都カーブルを占拠し、2000年までには国土のほぼ90%を支配した。北部にはマスード司令官を中心とした北部同盟が僅かに抵抗を続けるという状態であった。最高指導者はカンダハールにいる宗教指導者ウマルで、教団はスンナ派の中のシャリーア(法)解釈の4つの派閥の1つハナフィー派に属し、教団の源流は1867年、イギリスの植民地支配に反発するグループが結成した。その主張はシーア派との妥協を一切認めず、聖者崇拝を禁止し、歌や踊りなど娯楽的な要素を全面的に否定する。

ターリバーン登場の背景

 パキスタンのアフガニスタン難民キャンプではサウジアラビアなどの資金援助によってモスクと附属する神学校が多数建設され、その中で急進的で狭隘な宗教教育が進められた。パキスタンのブット政権は、旧ソ連から独立したトルクメニスタンの原油を、アフガニスタン経由でカラチまでパイプラインを建設することで経済的な利益を得ることを目ざしていた。そこでアフガニスタンに親パキスタン政権を樹立しようと画策したがうまくいかず、直接介入はできないので、アフガン難民の中に育っていたターリバーンに積極的に武器、資金援助を行った。

ターリバーン政権の恐怖政治

 権力を握ったターリバーンは、反対派を次々と公開処刑するなど恐怖政治を行った。徹底したイスラーム原理主義による政教一致をめざし、『コーラン(クルアーン) 』やハディースに基づいて一切の欧米文明を否定、市民生活に対しても女性の就職や教育を禁止、女性にはブルカ(ヴェール)着用、男性にはひげを伸ばすことが強制され、テレビ・ラジオ・映画なども禁止された。2001年3月2日~14日にはバーミヤンの石仏などの仏教遺跡を偶像崇拝であるとして破壊するなど、世界の情報から隔離された中で独自の政策を展開したので、世界中から恐怖の眼で見られた。

ターリバーン政権とアル=カーイダ

 1979年、ソ連軍のアフガニスタン侵攻が始まると、サウジアラビアはアラブの青年に呼びかけて義勇兵をアフガニスタンに送り込んだ。彼ら、「アラブ=アフガン」の中に、22歳のビン=ラーディンもいた。彼らはムジャヒディーン(戦士)として訓練され、ソ連軍と戦ったが、ソ連軍撤退後のゲリラ同士の内戦に失望していったん国外に去った。1996年5月、スーダンを追われたビン=ラーディンは自ら組織した国際テロ組織アル=カーイダの拠点を建設するためにアフガニスタンに戻り、ターリバーンに資金と武器を援助し提携した。1998年にはケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件(アメリカ人を含む234人が死亡)が起き、アメリカのクリントン大統領はビン=ラーディンらの組織の犯行と断定し、アフガニスタン(およびスーダン)のテロ組織活動拠点に巡航ミサイル「トマホーク」を打ち込み報復した。そして、2001年9月11日、同時多発テロが起きるとアメリカのブッシュ政権は国際テロ組織アル=カーイダの活動拠点となっているとしてアフガニスタンを攻撃し、ターリバーン政権は崩壊した。しかしターリバーンは山岳部などで勢力を保持し、アメリカ軍の支援で成立したカルザイ大統領政府に抵抗を続けた。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 などによる> → アフガニスタン

パキスタンのターリバーン

 現代のパキスタンの北部には、アフガニスタンと同じパシュトゥーン人が多く、イスラーム原理主義組織ターリバーンが活動拠点としていた。その北部スワート県では実権を握ったターリバーンが、学校での女子教育の否定などのイスラーム原理主義を住民に強制した。それを批判した14歳の少女マララ=ユスフザイがターリバーンに銃撃され、重傷を負うという事件がおこった。国際社会に強い拒否反応が生まれ、パキスタン政府はターリバーン掃討を強化したが、まだ完全に制圧し切れていない。そのような中、2014年にはマララ=ユスフザイがノーベル平和賞を史上最年少で受賞した。

アフガニスタン戦争

 2001年9月11日9.11同時多発テロがおきると、アメリカ合衆国のブッシュ大統領は、その犯行を国際テロ組織アル=カーイダのビン=ラーディンと断定、アフガニスタンのターリバーン政権が匿っているとして引き渡しを要求した。アフガニスタンがそれに応えなかったとして、2001年10月7日、アメリカ軍・イギリス軍などの有志連合は空爆と地上軍を投入した。
 このアメリカ軍などによるアフガニスタン攻撃=アフガニスタン戦争によって、同年末までにターリバーン政権は首都カーブルを放棄、米軍に支援される新政府が樹立された。しかし結局ビン=ラーディンは捕捉することは出来なかった(後にパキスタンに潜伏中をアメリカ軍のドローン攻撃で殺害された)。アメリカ軍を主体とした有志連合の軍事行動は、2014年に終わったが、その間ターリバーンは南部を中心とする山岳地帯を拠点に、その後も駐留する米軍との衝突が続いた。その後、アフガニスタンでは選挙による大統領が選出され、市民的な権利や女性の平等も回復されたが、政府軍・警察による治安は安定せず、ターリバーン側のテロや山岳地帯での交戦が跡を絶たなかった。
ターリバーン政権の復活 アメリカのトランプ大統領は、長期駐留でアメリカ軍の人的、財政的な負担が膨大になったことをあげ、20年目を迎える2021年を目途にアメリカ軍を撤退させることを掲げた。次のバイデン大統領も、アフガニスタンからの撤退を公約していたので、2021年9月11日の同時多発テロ20年までに撤退することを決定した。アメリカ軍の撤退が目前となり、その支援を受けられなくなったアフガニスタン政府軍は急速に戦闘能力を失い、各地でターリバンが攻勢に出て主要都市を次々に占領し、首都カーブルに迫ると、2021年8月15日にガニ大統領が脱出、政府軍も政府機構も崩壊した。ターリバーンが首都に入り、政権が復活したが、多くの民衆がアフガニスタンを脱出しようとして混乱が生じた。この後も多くの難民の出現も懸念される。今後は、ターリバーン政権が国際的な承認を得るようなアフガニスタン統治の内実の変化を見せるかどうかが焦点になるものと思われる。
アメリカ軍の撤退 カブール空港での米軍撤退作戦は8月26日、IS(イスラム国)ホラサン州を名乗る自爆テロによって米兵18人と多数のアフガン人が死傷するという事件により、さらに混乱に陥ったが、バイデン大統領はイギリスなどの撤退延期要請に応じず、予定どおり8月31日に撤退を完了したと声明を発表した。これによって、2001年から始まったアフガニスタン戦争は終結したが、タ-リバ-ン政権が治安を維持し、国際社会が期待する人権や自由、とくに女性の社会進出や教育といった基本的人権を認める方向に変わるのか、従来どおりイスラーム法の厳格な執行だけを掲げていくのか、まだ見通しは明らかではない。<2021/9/2 記>
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青木健太
『タリバン台頭――混迷のアフガニスタン現代史』
2022 岩波新書