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ターリバーン

1989年のソ連軍撤退後に急速に台頭したアフガニスタンのイスラーム教原理主義者が組織した武装組織。96年に権力を握り、極端な徹底した原理主義にもとずく宗教国家建設を目ざす。2001年の同時多発テロの首謀者と目されたビン=ラディンが潜伏したとして、アメリカ軍が侵攻したため、首都から排除され政権を失った。

 ソ連軍が撤退した後のアフガニスタン内戦の中で急速に台頭し、1996年にアフガニスタンの権力を握ったイスラーム教スンニー派の原理主義武装集団。ターリバーン(タリバン、タリバーンなどとも表記)はイスラーム教の神学校(マドラサ)の生徒(神学生)を意味する「ターリブ」の複数形。そのメンバーはいずれもパキスタンのアフガニスタン難民キャンプで育ったパシュトゥーン人の24、5歳以下の青年であった。1994年7月、南部の古都カンダハールに忽然と現れて地元の武装勢力を排除、翌年には西部のヘラートを押さえ、96年には首都カーブルを占拠し、2000年までには国土のほぼ90%を支配した。北部にはマスード司令官を中心とした北部同盟が僅かに抵抗を続けるという状態であった。最高指導者はカンダハールにいる宗教指導者ウマルで、教団はスンニー派の一分派であるハナフィー派に属し、教団の源流は1867年、イギリスの植民地支配に反発するグループが結成した。その主張はシーア派との妥協を一切認めず、聖者崇拝を禁止し、歌や踊りなど娯楽的な要素を全面的に否定する。寛容なスンニー派でありながらシーア派的な厳格な側面を持っている。

ターリバーン登場の背景

 パキスタンのアフガニスタン難民キャンプではサウジアラビアなどの資金援助によってモスクと附属する神学校が多数建設され、その中で急進的で狭隘な宗教教育が進められた。パキスタンのブット政権は、旧ソ連から独立したトルクメニスタンの原油を、アフガニスタン経由でカラチまでパイプラインを建設することで経済的な利益を得ることを目ざしていた。そこでアフガニスタンに親パキスタン政権を樹立しようと画策したがうまくいかず、直接介入はできないので、アフガン難民の中に育っていたタリバーンに積極的に武器、資金援助を行った。

ターリバーン政権の恐怖政治

 権力を握ったターリバーンは、反対派を次々と公開処刑するなど恐怖政治を行った。徹底したイスラーム原理主義による政教一致をめざし、コーランやハディーズに基づいて一切の欧米文明を否定、市民生活に対しても女性の就職や教育を禁止、女性にはブルカ(ヴェール)着用、男性にはひげを伸ばすことが強制され、テレビ・ラジオ・映画なども禁止された。2001年2月末にはバーミヤンの石仏などの仏教遺跡を偶像崇拝であるとして破壊するなど、世界の情報から隔離された中で独自の政策を展開した。

ターリバーン政権とアルカーイダ

 1979年、ソ連軍のアフガニスタン侵攻が始まると、サウジアラビアはアラブの青年に呼びかけて義勇兵をアフガニスタンに送り込んだ。彼ら、「アラブ=アフガン」の中に、22歳のビン=ラディンもいた。彼らはムジャヒディーン(戦士)として訓練され、ソ連軍と戦ったが、ソ連軍撤退後のゲリラ同士の内戦に失望していったん国外に去った。96年5月、スーダンを追われたビン=ラディンは自ら組織した国際テロ組織アルカーイダの拠点を建設するためにアフガニスタンに戻り、ターリバーンに資金と武器を援助し提携した。1998年にはケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件(アメリカ人を含む234人が死亡)が起き、アメリカのクリントン大統領はビン=ラディンらの組織の犯行と断定し、アフガニスタン(およびスーダン)のテロ組織活動拠点に巡航ミサイル「トマホーク」を打ち込み報復した。そして、2001年9月11日、同時多発テロが起きるとアメリカのブッシュ政権は国際テロ組織アルカーイダの活動拠点となっているとしてアフガニスタンを攻撃し、ターリバーン政権は崩壊した。しかしターリバーンは未だに山岳部などで勢力を保持している。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 などによる> → アフガニスタン

パキスタンのターリバーン

 現代のパキスタンの北部には、アフガニスタンと同じパシュトゥーン人が多く、イスラーム原理主義組織ターリバーンが活動拠点としていた。その北部スワート県では実権を握ったターリバーンが、学校での女子教育の否定などのイスラーム原理主義を住民に強制した。それを批判した14歳の少女マララ=ユスフザイがターリバーンに銃撃され、重傷を負うという事件がおこった。国際社会に強い拒否反応が生まれ、パキスタン政府はターリバーン掃討を強化したが、まだ完全に制圧し切れていない。そのような中、2014年にはマララ=ユスフザイがノーベル平和賞を史上最年少で受賞した。
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