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クシャーナ朝

1世紀頃、イラン系民族が北西インドを支配して建てた王朝。全盛期のカニシカ王は仏教を保護し、ガンダーラ美術が栄えた。

クシャーナ朝地図
1~3世紀 クシャーナ朝の統治範囲
 紀元1世紀中頃、中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入して国家を作った。クシャンとも表記し中国では貴霜と書く。その第3代カニシカ王は仏教に帰依し、マウリヤ朝のアショーカ王に続く仏教の保護者となった。またこの時代に、ギリシア・ローマ起源のヘレニズムと、ペルシアのイラン文化、さらに中国と中央アジアの文化が融合し、ガンダーラ美術が開花した。都はガンダーラ地方の中心地のプルシャプラ(現在のペシャワール)。またこの時代に、仏教の革新運動としてナーガールジュナが登場し、大乗仏教が成立した。

大月氏とクシャーナ人

 前2世紀に匈奴に追われて西遷し、アフガニスタンに入ったイラン系大月氏が、その地のイラン人を支配し、五つの諸侯をおいて統治させた。この5諸侯については、大月氏の一族と見る説と、土着のイラン系有職者と見る説とがある。その一つがクシャーナ族で、その首長のクジューラ=カドヴィセスが他の4諸侯をあわせて一大勢力となり、カドフィセス1世を名乗った。1世紀中頃南下して現在のアフガニスタンをパルティアから奪った後、北インドのガンダーラ地方に入って、クシャーナ朝を建国した。<世界各国史(新版)『南アジア史』2004 山川出版社 p.86 などによる>

クシャーナ朝の支配領域

 クシャーナ朝はインドの王朝といっても、民族系統はイラン系と考えられ、またその支配領域も現在のアフガニスタン、イラン東部からパキスタンのパンジャーブ地方、インドのガンジス川上流から中流にかけてであった。インド全土を支配したのではないことに注意する。その支配は、ガンジス下流やデカン高原以南には及ばず、デカンにはサータヴァーハナ朝が存在していた。
クシャーナ朝のインド化 イラン系民族であるクシャーナ族は、前2世紀末ごろ、バクトリアに侵入して定住し、さらに紀元後1世紀ごろに領土を拡張し、パルティアやインド北部を征服してクシャーナ朝を建てた。彼らはバクトリア語を話し、ギリシア文字を使い、ゾロアスター教の拝火儀式も行っていたが、その本拠をインドに移すに従い、バクトリア語もゾロアスター教の信仰も棄て、プラークリット語(文語であったサンスクリットに対するインドの俗語)を話し、大乗仏教の熱心な保護者となった。それによって仏教は内陸アジアに広がっていったが、北伝仏教の中の弥勒菩薩信仰は、ゾロアスター教の救世主思想の影響があったと考えられている。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.168>

クシャーナ朝と東西貿易

 クシャーナ朝時代は地中海をローマ帝国が支配していた時代で、ローマ帝国の支配下のギリシア人商人がペルシア湾からアラビア海に進出し、季節風貿易を展開した。前1~3世紀には、クシャーナ朝だけではなく、デカン高原のサータヴァーハナ朝やインド南端のチョーラ朝も、インド洋交易圏の季節風貿易を利用したローマとの交易を行っていた。インドからは胡椒などの香辛料、宝石、真珠、象牙、綿布などが輸出され、ローマからはぶどう酒やオリーブ油がもたらされたが、常にインド側の輸出超過であったので、ローマから代金として金貨がインドにもたらされた。クシャーナ朝ではローマからもたらされた金をもとに、ローマ貨幣に模して大量の金貨を造った。

後漢、ローマ帝国との関係

 クシャーナ朝の王は、東の漢帝国(後漢)に使者を送っている(『後漢書』ではクシャーナ朝も大月氏として出てくる)が、ローマ帝国トラヤヌス帝の時にインドから使者というのもクシャーナ朝の王の使者であろうと言われている。

クシャーナ朝の衰退

 クシャーナ朝は3世紀に西方に起こったササン朝ペルシアに圧迫され衰退した。同じころ、ローマ帝国も3世紀の危機といわれる衰退期に入っており、ローマとの交易も衰えたことがクシャーナ朝の衰退の要因の一つと考えられている。
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ノートの参照
第2章1節 カ.クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝
書籍案内

辛島昇編
『南アジア史』山川出版社・世界各国史