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活字印刷術

北宋の11世紀前半に、畢昇が土製の活字を考案、後に木製になり、13世紀には朝鮮の高麗で金属活字が生まれた。ヨーロッパでは15世紀のグーテンベルクが活版印刷を実用化した。

 版木に文章を彫る木版印刷に対し、文字を一個ずつ印形にして組み合わせる印刷術。11世紀の半ば、宋代(北宋)の慶暦年間、1034~1038年のあいだにに畢昇(ひっしょう)という工人が活字印刷を発明したといわれている。この活字は土を固めたもので、鉄板の上に蝋を流し、その上に活字を並べ、上から紙をあてて印刷した。やがて木活字がつくられ、1221年には木活字で科挙受験用の百科辞書が作られている。 → 宋代の文化 三大発明

世界最古の朝鮮の金属活字

 13世紀はじめには朝鮮の高麗金属活字(銅)が使用されるようになったという記録があるが、その確実な遺品は見つかっておらず、その正確な時期はわからなかった。現在は、1377年に金属活字で出版された『直指心体要節』という書物の存在が確認されており、それが最古の金属活字の印刷例であるとされるようになった。とすれば、朝鮮における金属活字印刷の始まりは、1455年といわれるグーテンベルクの「42行聖書」の刊行よりも、78年前のこととなる。
『直指心体要節』 1972年に開催された「世界図書の年(International Book Year)を記念のための国際展示会」に、フランス国立図書館から出品された『直指心体要節』という書物の巻末に、“宣光七年丁巳七月日 清州牧外興徳寺鋳字印施”という部分があった。宣光七年とは高麗の時代で1377年のこと、鋳字印施とは鋳造された金属活字で印刷したという意味である。その印字を子細に検討した結果、金属活字で印刷したものであることが判明した。これはそれまで知られていなかった14世紀の活版本で、世界最古であることが確認された。興徳寺は廃寺となっていたが、1984年から清州市郊外で発掘調査が行われ、寺院跡が確認された。
 『直指心体要節』(略称を「直指」という)は禅宗の僧白雲和尚の著作で、正確には、「白雲和尚抄録佛祖直指心體要節」といい、白雲が中国で学んだ禅宗の修行方法を判りやすく説いた書物で、本来は上下2冊であった。フランス国立図書館にあるのはそのうちの下の、最初の頁を欠いたものであるが、他に例を見ない貴重なものであった。この書がフランスに渡った経緯は明らかではないが、1888年初代駐韓代理公使としてソウルに赴任したコラン=ド=プランシーが蒐集した韓国の文化財の中に含まれてフランスに運ばれ、その死後図書館に寄贈されたが他の資料にまぎれて長く忘れ去られていたらしい。
 この発見で注目を集め、同書は2001年、ユネスコ世界記録文化遺産に登録された。また清州市には現在、清州古印刷博物館が建設され、韓国の金属活字印刷資料が展示されている。韓国政府は『直指心体要節』の実物の返還要求をしているが、フランス国立図書館は応じていない。 → jikjiworld ホームページ
※この項は、韓国のVANK (Voluntary Agency Network of Korea) という団体の会員 オ・ユジン さんから教えていただいて修正しました。

朝鮮王朝での金属活字

 高麗の伝統を受け継ぎ、朝鮮王朝では第三代太宗の時の1403年、鋳字所が設けられ、いっそう発展した。全盛期の世宗の時には甲寅字が鋳造され、盛んに刊行事業が行われた。世宗時代に出版された書物には、建国の過程を描いた『飛龍御天歌』、歴史書『東国通鑑』、農書『農事直説』、医学書『郷薬集成方』、暦法書『七政算内編』、『七政算外編』など、(仏教経典ではなく)実用的な書物が多く出版されていることが注目できる。これは、世宗の訓民正音の制定と共に、重要な文化事業であった。
 15~16世紀は朝鮮の印刷史上、ひじょうな活況を呈した。銅活字が国家の手で何度も大量に鋳造され、活字本が多数出版され、また、金属活字の美しい文字は木版作成の模範となり、地方の役所、寺院、書院で盛んに木版印刷が行われた。このような印刷文化が両班の文化を支えていた。
 このように朝鮮は世界ではじめて金属活字を造り、実用化した。その歴史的意義は高く評価できる。しかし、朝鮮の金属活字は漢字を一字ずつ鋳造しなければならない困難さがあった。その点が、遅れて始まったグーテンベルクのアルファベット金属活字、活版印刷と言った新技術が書物の大量生産を可能にして印刷革命を起こした、ようにはならなかった理由と考えられる。<岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』1998 世界の歴史22 中央公論新社 p.37,135-136>

西方への活字印刷術の伝播が遅れた理由

 印刷術は製紙法の伝播と違い、すぐには西方に伝わらなかった。それは中国に来ていたイスラーム教徒には、コーランを印刷することは神を冒涜することと思われていたためである。ようやく、モンゴルが中国を支配した13世紀になって、直接に元時代の中国にやってくるようになったヨーロッパの商人や宣教師によって、中国では紙幣を印刷していることが知られ、14世紀の末にイタリアで印刷業が起こった。中国では漢字の性格上、木版印刷が盛んであったが、文字数の少ないアルファベットを使用するヨーロッパでは活字印刷が急速に普及した。<藪内清『中国の科学文明』岩波新書p.114-118>  → ヨーロッパの活版印刷術
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書籍案内

藪内清
『中国の科学文明』
1970年 岩波新書

岸本美緒・宮嶋博史
『明清と李朝の時代』
世界の歴史 22
1998年 中央公論新社