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ゲルマン人の大移動

4~6世紀のゲルマン人がヨーロッパ全域に拡大した動き。西ローマ帝国を滅亡させ、中世社会を成立させた。

4世紀から6世紀に及ぶ約200年に及ぶゲルマン人の大移動は、一般に375年の西ゴート人のドナウ川越境から、568年の北イタリアでのランゴバルド王国の建国までとされ、これを第1次ゲルマン人大移動という。次いで8世紀に始まり、11世紀まで続いたゲルマン人の一派ノルマン人の移動を第2次ゲルマン人大移動という。 → 民族移動

背景

 西進してきたアジア系遊牧騎馬民族のフン人に圧迫されたのを契機に始まったとされるが、その本当の理由はまだ判らないことが多い。もともとゲルマン人の農耕は肥料を使わず、また後の三圃制などの耕地を休ませて交替に使うことも知らなかったので、生産力が低く、毎年耕地を変えなければならない移動性の強いものであった。そのため、耕地を獲得するには常に新しい土地を開拓する必要があった。徐々に増えてくる人口を維持するには、耕地の不足が問題となっていた。このような耕地不足の状況を解消する必要性が背景にあったものと思われる。

ゲルマン人の移動と建国

 主なゲルマン民族が建国した国を挙げると、西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ブルグンド人は南西フランス、フランク人は北西フランス、アングロ=サクソン人はブリテン島に入ってそれぞれ建国した。最も長距離を移動したヴァンダル人はイベリア半島から北アフリカに入り、かつてのカルタゴの故地に建国した。しかしこれらの多くのゲルマン系国家は、東ローマ帝国やイスラーム勢力、そして唯一生き残ったフランク王国に征服されていく。これらのゲルマン人の移動と建国によって、西ローマ帝国は滅亡し、フランク王国が成立するという古代から中世へのおおきは変化の導因となった。

ユーラシア東部の民族移動

 なお、4世紀にゲルマン人の大移動が始まり、ヨーロッパ世界が成立していった頃、遠く東アジアでも五胡と言われる北方遊牧民の活動が活発となり、盛んに中国内部に侵入して華北に五胡十六国を形成する。東西のこのような動きには何らかの共通する要因があったかも知れない。

「民族移動」という表現は正しいのか

 私たちは「ゲルマン民族の大移動」という表現を、何の疑いもなく使っている。しかし、フランスではそうではなく「大侵入」といっているのだ。ドイツでは「大移動」という。つまり、ゲルマン人の視点から見れば「移動」であるが、当時のフランスのガリア人からすれば、それは「侵入」であったわけだ。日本での世界史教育は常にドイツよりだったから、「ゲルマン民族の大移動」という言い方が定着したのだろうが、ちょっと安易に使いすぎているのではないだろうか。その辺の事情は、ジャック=ル=ゴフが次のように説明している。
(引用)北方ヨーロッパと中央ヨーロッパからの民族の移住を、フランス人は「大侵入」とよび、ドイツ人は「民族大移動」とよびました。ヨーロッパ人が自分たちの歴史についていつも意見を同じにするとはかぎらないのがわかります。事実、移住民族の大部分は同じ民族集団であるゲルマン人、すなわちドイツ人の祖先に属し、(侵入された側の)ガリア人はフランス人の先祖に属していたからです。人びとはふつう新来者を「蛮族(バルバル)」としてあつかいました。彼らの文明を劣っていると見なしたからです。ゲルマン人は文字を用いず、口承による文化を持っていました。おまけにゲルマン人のローマ帝国内への移住は平和的なものではありませんでした。流血の戦闘による軍事的征服だったのです。異民族はすすんだ製鉄技術をもち、立派に武装していましたから、たいていは勝利しました。特にゲルマン人の剣は両刃で長く丈夫で、威力抜群でした。<ジャック=ル=ゴフ/川崎万里訳『子どもたちに語るヨーロッパ史』2009 ちくま学芸文庫 p.52>
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ノートの参照
第6章1節 イ.ゲルマン人の大移動
書籍案内

ル・ゴフ/川崎万里訳
『子供に語るヨーロッパ史』
2009 ちくま学芸文庫