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民族移動

世界史上、幾度かの大規模な民族移動が繰り返された。主なものには次のような時期の民族移動を上げることができる。

紀元前2000年~前1500年頃の民族移動

 紀元前2000年ごろから前1500年頃間までの間に、インド=ヨーロッパ語族の南下を中心とした大規模な民族の移動が起こった。それまでセム系民族の農耕社会であった西アジアに大きな変化をもたらした。小アジアに移住し、メソポタミアに勢力を広げたヒッタイト人がその代表的な民族で、ミタンニカッシート(カッシートについては非インド=ヨーロッパ語族との説もある)がそれに続いた。エーゲ文明の地域に南下してそれを征服したギリシア人や、前1500年頃に北西方面からパンジャーブに侵入してインドに新たな文明を形成したアーリヤ人、イラン高原に入ったイラン人などがこの民族移動の一連の動きと関連があると考えられている。これらの民族移動は、それぞれの地域に鉄器文化を伝え、鉄器時代をもたらしたという共通項もある。ヘブライ人がパレスチナに定住したのもこのころとされている。なお、中国では黄河中流に殷王朝があった時代であった。
 世界史上にはこれ以降にもたびたび民族移動の波が起きるが、その要因としては、気象の変化・食糧事情の変化・なんらかの社会的変化が考えられる。しかしまだ解明されたとは言い難い。


紀元後4~5世紀の民族移動

 同じような民族移動は、紀元後の4~5世紀の同じ時期に、中央アジアの遊牧民の移動である五胡の活動ととそれによってもたらされた魏晋南北朝の変動や、フン人(漢に圧迫された匈奴の一部と考えられている)の移動)に押されて起こったゲルマン人の大移動などをあげることができる。ユーラシア大陸の東西で、同時期に民族移動の波が起きていることが注目される。五胡の移動と魏晋南北朝の動乱は隋唐という中国の新たな王朝国家を出現させ、ゲルマン人の大移動は、古代ローマ帝国を招いて中世ヨーロッパ世界を出現させたという、共に大きな変化の要因となった。
 ゲルマン人の大移動の結果、ローマ帝国領内に移住定着したいくつものゲルマン人部族が国家を建設した。西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ブルグンド人は南西フランス、フランク人は北西フランス、アングロ=サクソン人はブリテン島に入ってそれぞれ建国した。最も長期的に移動したヴァンダル人は北アフリカに建国した。しかしこれらの多くのゲルマン系国家は永続きせず、最終的にフランク王国が残ることになる。
注意 「民族移動」という言い方は正しいか 私たちは「ゲルマン民族の大移動」という言い方に何の疑問を感じないが、フランスではこの用語は用いられない。それではなんというのか。「ゲルマン人の大移動」の項を参照してください。


9~12世紀の民族移動

 ヨーロッパではゲルマン民族の大移動を第1次民族移動とし、9世紀に始まる同じゲルマン系のノルマン人の移動は第2次民族移動と言われている。もともとスカンジナビア半島周辺にいた海洋民族であったノルマン人は、おそらく人口の増加などの要因から、より生産性の高い地域を目指して、主として海洋を利用して進出した。その活動は多方面に及んでおり、ヴァイキングと言われたブリテン島やフランスの海岸に進出した人々がまずあげられる。彼らの一部はフランスのカペー朝から土地を与えられ、ノルマンディー公国を作った。またノルマンディーからさらに地中海方面に進出し、南イタリア・シチリア島に上陸して、イスラーム教勢力と競合しながら両シチリア王国を建国した。さらにバルト海沿岸から内陸に入ったルーシといわれる人々はノブゴロド国をつくり、それがその地のスラヴ人と同化を重ねていって後のロシア国家のもとになった。なお、ノルマン人の一部は大西洋を横断して、北アメリカに到達していたことが遺跡から明らかになっている。彼らは絶滅してしまったが、コロンブスより以前にヨーロッパ人が新大陸に到達していたわけである。


トルコ系民族の大移動

 民族移動の学習ではゲルマン民族やノルマン人に目がいきやすいが、彼らの専売特許ではない。特に6世紀ごろからのトルコ系民族の移動と拡張はユーラシアにおけるモンゴル人の大発展に先行する民族の動きとして重要である。彼らはもともとモンゴル高原の東側で遊牧生活を送っており、6世紀には突厥という大遊牧帝国を作り、中国の唐王朝を圧迫した。突厥はトルコの中国表記である。彼らは多くの部族に別れて、興亡を繰り返しながら8世紀にはその中のウイグルが有力となった。840年、ウイグルが同じトルコ系のキルギス人に滅ぼされたとき、その一部が西に移動してパミール高原の東側のタリム盆地や西側のソグディアナに定住するようになった。そこからこの地域をトルキスタン(トルコ人の地)というようになった。ソグディアナにはイラン系のソグド人が商業活動をおこなっていたが、彼らもトルコ化していった。またトルコ系ハザール人は南ロシアの草原に移動しハザール=カガン国を建国した。それより前、西からイスラーム教が及んできて、751年にはアッバース朝と唐がタラス河畔で衝突した。これ以後、徐々にトルキスタンのイスラム化が進み、9世紀の中ごろ、トルコ系のカラ=ハン国がトルコ系最初のイスラーム国家となる。11世紀に中央アジアに登場したセルジューク朝は西方への移動を開始し、やがてイラン高原からメソポタミアに入りアッバース朝からスルタンの地位を認められて西アジアの中心勢力となった。その一部は小アジアに入り、ビザンツ帝国領を浸食し、キリスト教世界に大きな脅威となり、十字軍運動が起こされる契機となった。セルジュークは十字軍との抗争で衰退し、モンゴル帝国によって滅ぼされるが、モンゴル後退後は小アジアにはトルコ系のオスマン帝国が台頭し、バルカン半島に進出、アジアとヨーロッパにまたがる帝国を建設する。このような中国北部にいたトルコ系民族が、ユーラシアの西のバルカン半島に及ぶまでの移動、拡張を見せていることにも十分注意しておこう。


モンゴル民族の拡張

 トルコ系に次いでモンゴル高原で活動していた遊牧民であるモンゴル人が13世紀初めに急速に発展し、チンギス=ハンが大帝国を建国、中国本土、さらには朝鮮や東南アジアのアジア各地、北インド、西アジア、そしてロシアから東ヨーロッパまで遠征軍を送った。このモンゴルの遠征は、通商の利益を求めてという側面が強く、征服地に定住することは基本的には求めていなかったので、民族移動ということにはならない。イル=ハン国、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国、元などはいずれもその地のイラン人、ロシア人、トルコ人、漢人などの生活をそのまま継続させ、税を徴収するという形態を採った。


その他の民族移動

 特異な例としてアフリカの黒人が奴隷としてヨーロッパやアメリカ新大陸に拉致された、18世紀の黒人奴隷貿易があれられる。これは本人の意志に基づかない、強制された移動であり、民族移動という概念にはあてはまらないが、組織的に多数の人間の移動が大陸間で行われたという歴史的事実は重要である。また近代に入って、産業革命期になると、労働者の国境と大陸を超えた移動が行われるようになる。特にアメリカ大陸へのアイルランド人の移民や、その他の移民新移民クーリーといわれるアジアからの大量の移民は形を変えた民族移動という側面もある。アジアにおいては、中国人の海外移住である南洋華僑、インド人の主として東南アジアへの移住である印僑なども近代における民族移動の形態ということができる。
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