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聖像崇拝論争

東西のキリスト教教会に於ける聖像の可否をめぐる論争。

 ビザンツ帝国の管轄するコンスタンティノープル総主教以下の東方教会(後のギリシア正教)の聖職者の中で始まった神学論争。本来のキリスト教では、その母体となったユダヤ教の十戒の第2項が「汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない」とあるように、偶像崇拝は厳しく禁止されていた。しかし、キリスト教が4世紀にローマ帝国に公認され、広く布教されていく中で、伝道の方便として、イエスやマリアの像が使われるようになった。ところが7世紀に東方教会に境を接する西アジアにイスラーム教が起こると、イスラーム教では徹底した偶像崇拝の否定が行われ、彼らはキリスト教での偶像崇拝を厳しく批判し始めた。その影響を受けて、ビザンツ帝国領のシリアやエジプトの聖職者の中にも聖像を偶像として、その崇拝を否定する考えが起こり、それを認める聖職者との間に論争となった。それを裁定したビザンツ皇帝レオン3世は、726年、聖像禁止令を出し、聖像の製造禁止と破壊を命じた。それは、イスラーム側からの批判を封じるとともに、反対する教会・修道院領を没収する狙いもあったとされる。

三位一体説との関係

 聖書の十戒にある「偶像を崇拝してはならない」という教えからすれば、聖像は当然否定されるものであるが、論争は単純ではなかった。聖像禁止派と崇拝派は、いずれもその前提はアタナシウス以来の正統である三位一体説に立っていることでは共通している。キリストの本質を「神性」とするか、「人性」とするか、言いかえれば「神であるのか、人であるのか」という論争に決着をつけて正統とされた三位一体説とは、「父と子と聖霊」は一体であると規定したが、結局あいまいに「キリストは神でもあり人でもある」とされ、神性と人性の関係は「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」(カルケドン公会議の決定)ということにされた。そのようなことが起こることこそが奇蹟なのだ、というのである。そこで、聖像禁止派は、キリスト像を描くことはその不可分とされている人性のみを分離することになり、三位一体説に反すると主張する。それに対して崇拝派は、キリストは受肉した、つまり人間の姿をとっているのであり、聖像は許される、ただし聖像そのものは神ではないから、あくまで聖像を通じて神を崇拝するのである(つまり偶像崇拝ではない)、と主唱した。前者がオリエント的な神であるとすれば、後者はギリシア的な神である。オリエントとギリシアの両方の伝統があったビザンツ世界でこの対立が生じたのもそのような背景があった。<井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』1990 講談社現代新書 p.136-137>

東西教会の論争に発展

 しかしこの聖像崇拝論争は、東方教会内の論争にとどまらず、東方教会と西方教会の対立に発展した。西方教会(ローマ=カトリック教会)の教皇グレゴリウス2世は、ゲルマン民族への布教を積極的に進めていたので、その際の聖像の使用は不可欠として、レオン3世の聖像禁止令に反撥した。ローマ=カトリック教会では、聖像破壊は最も悪質な反教会的行為とされ、聖像破壊者(イコノクラスト)は異端であると考えられるようになり、次第に東西教会の対立は決定的となった。こうしてビザンツ帝国と対立することになったローマ教会は、あらたな保護者が必要となり、そのためにフランク王国との関係を強めていくこととなる。最終的には両教会は1054年に互いに破門し合って東西に分離する。

聖像破壊の激化と反動

 なお東方教会においては、レオン3世とその次のコンスタンティノス5世の時に、激しい聖像崇拝派に対する弾圧が行われ、聖像破壊も実行された。787年にも禁止令が出されているが、聖像破壊の反動や教会の抵抗もあって、843年には「イコン」の使用が認められ、事実上復活する。しかし、それは平面像のみと言うもので彫刻や立像は認められなかった。
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ノートの参照
第6章2節 ア.ビザンツ帝国の繁栄と衰亡
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井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』
講談社学術文庫