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カール4世

14世紀の神聖ローマ皇帝、ベーメン王。1356年、金印勅書を定め神聖ローマ皇帝の選出を7選帝侯に限定する。プラハ大学の創設など文化興隆に努めた。

 神聖ローマ帝国のルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝(在位1347~78年)であり、かつドイツ王・ベーメン王、その他の王位を兼ねた。ドイツ西部の名門貴族ルクセンブルク家の皇帝ハインリヒ7世の孫。父の領有したベーメン(ボヘミア)王位を継承。ローマ教皇に推されて神聖ローマ皇帝に選出される。
 彼はフランス語、イタリア語、ドイツ語、チェコ語を自由に操り、ラテン語の文を書くことが出来た知識人で、1348年には中部ヨーロッパでは最初の大学であるプラハ大学を創設した。歴代の皇帝と違ってイタリア政策に没頭することなく、本国のベーメンとドイツの統治にあたった。1356年に発した「金印勅書」は神聖ローマ帝国の大空位時代を終わらせ、新たに皇帝選挙の手続きを定めたものであった。これによって成立した帝国議会には都市の代表も加わり、ドイツにおける諸侯が会議を開催する身分制議会の役割を果たすこととなる。またアヴィニヨンの教皇のローマ帰還に尽力し、1377年にはそれを実現させ、「教皇のバビロン捕囚」を終わらせた。

ベーメン王・神聖ローマ皇帝となった経緯

 1306年、ベーメン王国のヴァーツラフ3世が何者かによって暗殺され、プシュミスル朝が断絶したため、チェコ人は時の神聖ローマ皇帝ルクセンブルク家のハインリヒ7世の息子ヨハンを迎え、ヴァーツラフの妹エリシュカと結婚させ、新たなベーメン王とした。これがルクセンブルク朝であり、ヨハンとエリシュカのあいだにプラハで生まれたのがカレル(ドイツ語でカール)だった。彼は父方のルクセンブルク家がフランスに隣接し、フランス王とも関係が深かったため、7歳から14歳までパリの宮廷で養育され、フランス風の教養を身につけた。父ヨハンはベーメン王となったがプラハにはほとんど滞在せず、おりからの百年戦争が始まるとフランス側に従軍し、1347年、クレシーの戦いで戦死した。
 父に代わって1333年からモラヴィア辺境伯としてプラハにあって弱体化していた王権の回復に努めていたカレルは、1346年には7人の選帝侯の選挙によってドイツ王に選出されており、父王の死によってベーメン王を兼ねることになった。またハインリヒ7世死後に神聖ローマ皇帝となっていたバイエルン公ルートヴィヒ4世が死んだため、同じ1347年に正式に神聖ローマ帝国皇帝となった。ベーメン王としてはカレル1世であるが、ドイツ王・神聖ローマ皇帝としてはカール4世と言われるので、それが通称となっている。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.53-69>

カール4世とプラハ大学

 カール4世は王都としてプラハを拡充して市域を拡大し、人口3~4万の大都市とした。1348年にはプラハ大司教を学監とするプラハ大学を創設した。これは神聖ローマ帝国つまりドイツにおける最初の大学であり、カール4世が若いころ滞在したパリのパリ大学を手本として4学部から構成されていた。カール4世の時代はベーメン王国およびプラハのもっとも繁栄した時代であったとされ、現在でもプラハ市内には「カレル橋」とその入口にある門など、彼の名を冠した遺跡が多い。

カール4世とユダヤ人迫害

 カール4世がプラハ大学を設立した1348年は、ヨーロッパ史では黒死病の大流行の年であった。恐怖に駆られた民衆は、ユダヤ人にその矛先を向け、ドイツでも西から東にポグロム(大量虐殺)が伝染してきた。カール4世のいたニュルンベルクでも市場のユダヤ人家屋が撤去され、ユダヤ教のシナゴーグに代えて聖マリア教会が建設された。49年12月には少なくとも562人のユダヤ人が火あぶりにされた。カール4世はそれを黙認したが、それへの償いの気持があったのか、プラハ新市街への移民を歓迎する法令ではその筆頭にユダヤ人をあげている。ペストの被害も少なかったこともありボヘミアではポグロムは起こらなかった。<坂井栄八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.58>

Episode カール4世は何処にいた?

 カール4世は神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ王)であり、同時にベーメン王であって、プラハ大学の創設など、プラハとは切っても切り離せない関係がある。彼はプラハの生まれであるが、子どものころはパリですごしており、ベーメン王として32年間(1347~78年)の在位期間のうち、実はプラハに滞在したのは合計で9~10年に過ぎない。彼はドイツ王としてニュルンベルクも重視し、2年半から3年を過ごしている。特に近郊のラウフの城が彼の好みの住居だった。さらに晩年になって、北東ドイツの大領邦ブランデンブルクを獲得して、エルベ河畔のタンガーミュンデに宮殿を建て1377年にそこに引っ越している。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.76>
 また「カール4世は自己顕示欲も相当なもので、あちこちに自分の名を冠した城を築いている。世界的に有名になったのは、城より温泉(カールスバート)の方だけれども。」<坂井栄八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.57>
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薩摩秀登
『物語チェコの歴史』
2006 中公新書

坂井栄八郎
『ドイツ史10講』
岩波新書