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ルクセンブルク

独仏間の緩衝地帯の小国。現代唯一の大公国で、ベネルクス三国の一つ。

ルクセンブルク国旗
 ルクセンブルクはドイツ、フランス、ベルギーに囲まれた小国で、面積は2586平方キロ(ほぼ神奈川県と同じ)、人口は約46万人(神奈川県の約19分の1)。正式にはルクセンブルク大公国(Grand Duchy of Luxembourg)で現在では「大公国」を名乗るのはルクセンブルクだけであるが、世襲の大公を戴く君主国である。公用語はフランス語・ドイツ語・ルクセンブルク語とされているが、固有のルクセンブルク語というのもドイツ語の方言に近い。ヨーロッパの中心に位置して諸国民の往来も活発なので、英語もイタリア語も普通に通用しているようだ。宗教は80%以上がカトリック。EUの原加盟国の一つであり、共通通貨ユーロを導入している。

ルクセンブルク大公国の成立

 10世紀にアルデンヌ家から分かれたルクセンブルク家がこの地の領主となり、神聖ローマ帝国を構成する。ルクセンブルク家は一時、神聖ローマ皇帝を出し、有力な存在だった。最も著名なのは14世紀のカール4世で、金印勅書を制定し、ボヘミア王を兼ねてプラハ大学を創設した。しかし15世紀からは周辺の勢力に押されて衰退し、ブルゴーニュ公国に併合された後、ハプスブルク家領となった。ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が解体された後、1815年にウィーン議定書によってオランダ王を大公とするルクセンブルク大公国となり、ドイツ連邦に加盟することになった。1830年にベルギー独立運動が起きるとそれと連動してオランダからの離脱をはかったが、31年のロンドン会議では国土の西半分をベルギーに割譲(39年に実現)し、残りは依然としてオランダ王を大公とすることで収まった。

永世中立の緩衝国家として存続

 ウィーン体制崩壊後の19世紀後半、プロイセンが普墺戦争で勝利してドイツ連邦が解体されると、フランスのナポレオン3世がルクセンブルクの買収をはかり、プロイセンとの対立が起こった(ルクセンブルク問題)。同年中にロンドンで国際会議が開催され、ルクセンブルクはいずれにも属さない永世中立国とすることで妥協が成立した。1890年にドイツのナッサウ公を大公として迎え、オランダとの関係は終わった。現在のルクセンブルク大公は、このナッサウ=ヴァイルヴルク家が世襲している。このようにルクセンブルクは周辺の大国に翻弄されながら、永世中立国として大国間の緩衝国となることで独立が維持されてきたと言える。その点では、スイス(ウィーン議定書で永世中立国とされた)、ベルギー(1839年、永世中立国として独立が認められた)と同じである。

ベネルクス三国の一つとして欧州統合を推進

 二度の世界大戦では、いずれもドイツ軍の占領下に置かれたたため、戦後1949年に永世中立を破棄し、NATOに加盟、独自に陸軍だけを有している。また第二次世界大戦後は、オランダ・ベルギーとともにベネルクス三国を形成して、積極的にヨーロッパ統合に加わった。48年にはベネルクス三国の関税同盟を結成、その後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、ヨーロッパ共同体(EC)、ヨーロッパ連合(EU)でも積極的な推進役となって現在に至っている。
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ノートの参照
第17章1節 イ.先進経済地域の統合化