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ニコポリスの戦い

1396年、オスマン帝国バヤジット1世がハンガリーなどキリスト教連合軍を破った戦い。

 1361年に始まるオスマン帝国バルカン半島進出は、1389年のコソヴォの戦いでバルカン諸国連合軍を破って一段と進み、 キリスト教徒への大きな脅威となっていった。1396年、ドナウ中流のニコポリスで、バヤジット1世イェニチェリ軍団とシパーヒー(騎兵)部隊を従え、ハンガリー王ジギスムントの率いるキリスト教軍との決戦が行った。その結果、オスマン帝国軍が大勝し、そのバルカン進出は更に勢いつくこととなった。しかし、オスマン帝国は1402年アンカラの戦いティムールに敗れ、バルカン侵攻を一時後退させることとなり、コンスタンティノープルを占領してバルカン制圧を完成させるのは、態勢を整えた後の1453年となる。

ニコポリス十字軍の結成

 オスマン帝国の急激なバルカン半島侵攻に対し、ヨーロッパ各国のキリスト教君主は、ハンガリー王ジギスムントのもと王侯や貴族、騎士が集まって、久しぶりに十字軍を編成した。ハンガリーは当時はドナウ川流域を支配する大勢力であり、キリスト教勢力の中心としてオスマン帝国の侵出阻止にあたることとなった。ハンガリー王はルクセンブルク家出身で神聖ローマ皇帝カール4世の子、熱心なカトリック信者であり、ヨーロッパ各地の君主や諸侯に十字軍の再編成を働きかけた。どれに応えてドイツ及びフランスの諸侯が参加し、さらにヴェネツィアやジェノヴァが支援した。その中心戦力はフランスのブルゴーニュ公ジャン無畏公(サン=プール)であった。

キリスト教連合軍の敗北

 1396年9月25日、ジギスムント王の指揮する十字軍は、オスマン帝国領内に侵攻、ドナウ川に近いニコポリス(トルコ名ニイボル)に進撃した。迎え撃つのはオスマン帝国第4代君主のバヤジット1世。中心に歩兵のイェニチェリ軍団とシパーヒー(騎兵)部隊を従えていた。十字軍側はまずブルゴーニュの騎士が突撃し、我先に一騎打ちを仕掛けたが、オスマン軍は一糸乱れず集団戦法を展開し、それを壊滅させた。これによってオスマン軍が優勢となり、ジギスムントは辛くも逃れたが、多くのキリスト教軍の騎士が戦死したり捕虜となったりした。十字軍といってもハンガリー王ジギスムントやフランスの騎士はカトリックであり、地元のバルカン勢はギリシア正教徒であったため、感情的な対立があった。オスマン帝国軍は機動力のある集団戦法とともに火器の使用もあわあせて優位にたち、およそ三時間の戦闘で勝敗が決した。

Episode ジギスムントの敗走

(引用)ジギスムントも、あやうく捕虜になるところを脱出して小舟にのった。従者たちは、我も我もと王に続いて小舟にのり込もうとしたので、全員が水中に沈むのを避けるために、お互いに相手を水中に叩き落とす騒ぎをも演じた。このような騒ぎのうちに、ジギスムントをのせた小舟はかろうじてドナウ川の流れを降って河口から黒海に入り、沿岸をたどって南下し、コンスタンティノープルに到着した。ジギスムントは、休養のいとまもなく、再び乗船、ダーダネルス海峡を通過してエーゲ海、アドリア海を経てダルマティアに至り、ここで上陸して、回り道をしながらハンガリアに帰ることができたのである。王の舟が、狭いダーダネルスを通過する時、オスマン兵は捕虜たちを岸辺にならべて、‘ここまで来て助けてみよ’と叫んで揶揄したという。<三橋冨治男『トルコの歴史』1964 復刻紀伊国屋新書 p.115>
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7章3節 トルコ・イラン世界の展開
書籍案内
トルコの歴史
三橋富治男
『トルコの歴史―オスマン帝国を中心に』
1994  (精選復刻紀伊国屋新書)