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メフメト2世

15世紀のオスマン帝国スルタン。1453年にコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅ぼす。

メフメト2世
メフメト2世
オスマン帝国スルタン(在位1451~1481)で、コンスタンチノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼし、領土をバルカン半島、黒海北岸などに広げて「征服王(ファティーフ)」と言われた。

コンスタンティノープルを征服

 アンカラの戦いの敗北で領土を失ったオスマン帝国であったが、メフメト1世、ムラト2世の2代で国力を回復、第7代スルタンとしてメフメト2世が即位した(これ以前にも何度か即位している)。1453年、メフメト2世はイェニチェリ軍団を率いて、コンスタンティノープルを包囲攻撃し、攻略に成功、ビザンツ帝国を滅ぼした。メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブルと改称してオスマン帝国の首都として造り替え、宮殿としてトプカプ宮殿を造営した。

バルカンへの領土拡張

 更にバルカン内部に進撃したメフメト2世は、ハンガリーへの侵攻はならなかったが、1459年にはセルビア、63年にはボスニア、60年までにはギリシア全土が、78年までにはアルバニアがオスマン領となり、62年にはルーマニアも属国となった。こうしてバルカン半島のほぼ全土がオスマン帝国の領土に編入された。一方メフメト2世は、アナトリア東部の諸勢力も平定して西アジアも抑え、さらに黒海北岸に出兵してロシア草原の東西交易ルートを抑え、クリム=ハン国を服属させて黒海を「オスマンの海」に組み込むことに成功した。

メフメト2世の時代

 このように、15世紀後半のメフメト2世のオスマン帝国は、文字通り「帝国」として東西世界にまたがる広大な地域を支配する専制国家となった。メフメト2世はイタリア遠征も予定し、1480年には先遣隊を南イタリアに上陸させ、翌年、彼自身が遠征に出発したが病没し、取りやめとなった。ルネサンスのまさに全盛期となろうとする時代であった。

メフメト2世の宗教寛容策

 メフメト2世はイスタンブルを支配するにあたり、ムスリム以外の異教徒をギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒の三つの宗教共同体ミッレト、またはミレット)に組織した。すべての非ムスリムはこのいずれかに属し、ミッレトごとに貢納の義務をもつかわりに、彼らの固有の信仰と法と習慣を認められ、自治を行ったとされている。

Episode オスマン帝国皇帝 兄弟殺しの法令

 メフメト2世は、父のムラト2世がイスラーム神秘主義に凝っていたため、退位をくりかえし、その都度息子のメフメト2世を即位させた(1444年と、1445年)。1451年ムラト2世が死んでメフメト2世が即位したが、彼にしては3回目の即位だった。その間、スルタンに代わって宰相が実権を握り、スルタンの地位も危うくなっていた。3度目の即位を果たしたメフメト2世は、弟のアフメトを処刑し、皇位争いの芽を摘み、宰相ハリル=パシャの反対を押し切ってコンスタンティノープル攻撃に踏み切ってそれに成功し、スルタン権力を揺るぎないものにした。オスマン帝国の歴史家は、メフメト2世の時に、皇帝が決まると、その兄弟は殺されるというオスマン帝国の法ができたとしている。メフメト2世が「世界の秩序が乱れるより、殺人のほうが望ましい」というイスラーム法学者の意見を得て、兄弟殺しの法令を定めたと言う。しかし、皇帝の兄弟を殺すことはバヤジット1世の時にも見られ、オスマン皇帝の専制化がすすむ中で、皇位争いを防ぐために成立した慣行だった。<鈴木董『オスマン帝国-イスラム世界の柔らかい専制-』1992 講談社現代新書 p.60>
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7章3節 トルコ・イラン世界の展開
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鈴木董
『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』
1992 講談社現代新書