印刷 | 通常画面に戻る |

コソヴォの戦い

1389年、セルビアなどがオスマン帝国軍に敗れた戦い。

13世紀末に小アジア西部に成立したイスラーム教国オスマン帝国はビザンツ帝国の弱体化に乗じて積極的にバルカン半島への進出を始め、ムラト1世は1362年にはアドリアノープルを占領した。さらにスラヴ系諸国の対立で分裂している情勢を見たムラト1世はバルカン内部に侵入した。迎え撃つセルビアボスニアなどの諸国は、ハンガリーも加えて連合軍を結成、1389年にコソヴォの平原でオスマン軍と対決した。戦闘はイエニチェリを中核としたオスマン軍の大勝に終わった。戦闘の直後、捕虜となったセルビア貴族の一人がムラト1世を殺害したが、この戦いの敗北を機にセルビアなどスラヴ諸国の抵抗は排除され、オスマン帝国の支配を受けることとなった。コソヴォ(またはコソボ)は現在のユーゴスラヴィア、コソヴォ(コソボ)自治州。現時もキリスト教徒とイスラム教徒の対立する紛争地である。 → コソヴォ問題 

Episode セルビア人にとってのコソヴォの屈辱

 600年以上前のコソヴォの戦いでの敗北は、セルビア人にとって民衆が文字を知らないなかでも「グスラ」という弦楽器に合わせて語り継がれ、歌い継がれてきた。それはちょうど琵琶法師が伝える平家物語のようなものだ。コソヴォの戦いがあった6月15日(新暦では28日)は4世紀に殉教した聖ヴィトウスの祭日でもあり、セルビア人がかつての民族の栄光が失われたことを嘆き、外敵に抵抗して民族統合を願う特別な日となった。そして1914年6月28日にはサライェヴォ事件が起こった。
 コソヴォの戦いでキリスト教連合軍を指揮したセルビア公ラザールの娘婿ミロシュ=オビリッチは、投降して靴に口づけすると見せかけ、隠していた短剣でスルタン・ムラト1世を刺殺した。しかしオスマン軍はムラト1世を引き継いだ息子バヤジットが総攻撃を開始し、ラザールは捕らえられてムラト1世の遺骸のそばで首をはねられた。ラザールの遺骸は、現在ベオグラードのサボールナ教会に首のないまま安置されている。<千田善『ユーゴ紛争』講談社現代新書 1993 p.174>

Episode コソヴォの戦い600周年記念集会

 1989年6月28日、「コソヴォの戦い」の6百周年を記念して、コソヴォ・ポーリェ(コソヴォ平原)で、約百万のセルビア人が集会を開いた。この集会は(この時のセルビア共和国の)ミロシェヴィッチ体制公認のものであり、これがアルバニア人の民族感情を刺激したことは、容易に想像される。すでにこの年2月には、コソヴォのアルバニア人鉱山労働者が坑内に立てこもって自治権確保を要求、ストが他の町それに対して共和国政府はコソヴォを連邦人民軍の管轄下に置いて弾圧した。40年1~2月にもコソヴォ各地でセルビア人とアルバニア人の衝突事件が起き、91年からのユーゴスラヴィア内戦への起爆剤となった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書 1996 p.144-145>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第6章2節 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
書籍案内

千田善『ユーゴ紛争』
1993 講談社現代新書

柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』
1996 岩波新書