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ティムール

1370年、ティムール朝を建国したモンゴル=トルコ系の人物。サマルカンドを中心に中央アジアから西アジアにかけて、広大な領土を築いた。明への遠征の途中に死去、帝国は分裂し、衰退した。

ティムール像
現在のタシケント、ティムール広場のティムール像。
現在もウズベキスタンの英雄とされている。
 ティムール朝(1370~1507年)の創建者。モンゴル系貴族の後裔で、イスラーム教徒でトルコ語を話す。中央アジアのパミール高原の西側一帯のソグディアナ西トルキスタンともいう)を中心に、現在のアフガニスタン、イラン、イラクにまたがる大帝国を建設した。
 東西に分裂していたチャガタイ=ハン国は統合して一時勢いを盛り返し、中央アジアに進出した。その軍に従軍していたのがモンゴル系の部族出身のティムール(チムール、帖木児とも表記。「鉄人」の意味)であった。ティムールは、チャガタイ=ハン国の内紛に乗じて、1370年に中央アジア(アム川以北の地、マー=ワラー=アンナフル)にティムール朝を建国、自らアミール(イスラーム教の指導者の意味)を称し、イスラーム教スンナ派を奉じた。かつてチンギス=ハンによって破壊されたサマルカンドを復興させ、都とした。現在、ティムールはトルコ系民族の英雄として、特にソ連滅亡後独立したウズベキスタン共和国では国民統合の象徴とされ、タシケント、サマルカンド、生まれ故郷のシャリサーブズに銅像が建てられ、その遺跡が復興されている。

ティムールはどの民族に属するか

(引用)ティムールは、1336年、サマルカンドの南、ケシュ(現在のシャフリサーブス)の近郊に、トルコ化しイスラム化したモンゴル族の一つ、バルラース部の一員として生まれた。彼の五代前の先祖はカラチャル・ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガターイ・ハーンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、チャガターイ・ハーンの補佐役として、ハーン家内部の諸問題を取り扱った有力者であった。・・・この一族は、ティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていたらしい。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.156>
 ティムールは自らはチンギス=ハンと同祖のモンゴル人であると墓石に刻ませているが、「トルコ化したモンゴル人」というのが正しく(彼ら自らはチャガタイ人と称した)、実質的にはトルコ人、名目的にモンゴル人とも言える。彼は文字は書けなかったが、チュルク語(トルコ語系)とタジク語(イラン語系)を自由に話したという。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.91-102 などによる>

ティムールの権威

 ティムールは1370年に、チャガタイ=ハン国のハンの一族の一人フセインの軍を破り、フセインを殺害してマー=ワラー=アンナフル唯一最高の実力者であることをクリルタイで承認された。「ただしティムールは、自らがチンギス=ハン家の出身者ではないことを考え、名目的なハーンの位には、ソユルガトミッシュというチンギス=ハーン家の一王子を擁立し、自らはチンギス=ハーンの血をひく一女性をめとって、ハーン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。これは、チンギス=ハーン家の血を重んずる遊牧民たちの支持を得るためにとられた方策である。そしてこの時以降、ティムールは終生ハーンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲン、・・・とよばれるが、それは”チンギス=ハーン家の女婿、遊牧貴族ティムール”・・・を意味する雅号である。」<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.159>

ティムールの外征

 ティムールはチンギス=ハンの子孫と称し、その事業を再現することをかかげ、たびたび自らが軍隊を率いて遠征を行った。
イラン・ロシア遠征 まず1380年にはイランに侵入してイスファハーンを占領、すでに衰えていたイル=ハン国を吸収し、イラン高原に支配領域を広げた。さらに北西に向かい、ロシアに入り旧キプチャク=ハン国(ゾロタヤ=オルダと呼ばれていた)の都サライを略奪してその領域も併合した。
インド遠征 1398年、ティムールは方向を転じて南方に向かい、インドに侵入しトゥグルク朝の都デリーを襲撃した。偶像崇拝の異教徒(ヒンドゥー教徒)を甘やかしているインドのムスリム王権に鉄槌を下すという大義名分を掲げていたが、狙いは「インドの富」にあり、同年12月17日にデリー郊外でトゥグルク朝スルタンのマフムードの軍を一蹴して翌日デリーを占領、その時捕虜約10万を足手まといとして虐殺した。デリーで破壊と略奪をほしいままにし、わずか15日間とどまっただけで、翌年1月1日に膨大な戦利品と多数の捕虜を連行してサマルカンドに向かった。このときサマルカンドに連行された多数の職人・技術者はサマルカンドのビビハニム=モスク(金曜モスク)の造営に充てられた。
アンカラの戦い 1400年にはシリアに侵攻してアレッポ、ダマスクスを破壊、次いで小アジアに入ってオスマン帝国バヤジット1世1402年アンカラの戦いで破った。オスマン帝国は一方でバルカン半島に進出していたが、この敗北によって、一時その勢いがそがれることとなった。

Episode ティムールの残虐さ

(引用)イスフィザル(今のアフガニスタンの都市)攻略のときには、二〇〇〇人の生きた人間を粘土ブロックとともに積み重ね、イスファハンの反乱のときには七万の頭蓋骨の山を築き、小アジアのシバスの戦いでは四〇〇〇人を生き埋めにした。デリのスルタン・マフムドとの戦闘では、戦いの決定的な局面で捕虜が後方から攻撃するとの噂を信じ、丸腰の捕虜約一〇万人を殺させた・・・・と伝えている。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.112>

中国遠征の挫折

 ティムールが出現して西アジアの大半を征服したのと同じ頃、東アジアに登場したのが朱元璋(太祖洪武帝)であった。ティムールは明が元を滅ぼし、モンゴルを北辺に追いやったことに対し復讐を宣言し、その明で太祖洪武帝が死に、靖難の役の内乱が勃発したことを好機と捕らえ、アンカラの戦いから転じて20万の大軍を東に向け、1404年にパミール高原を越えて進軍させた。そのままいけば、モンゴル帝国の再現をめざすティムールと中華帝国の建設をめざす永楽帝という英雄同士の戦いとなるところであったが、ティムールは途中のオトラルで1405年2月18日に病死(異常な寒さをしのぐため酒を飲み過ぎたためといわれる)し、対決は実現しなかった。その墓所は現在のサマルカンドの中心部のグリ=アミール廟として残されている。

都市の建設

 「チンギス=ハンは破壊し、ティムールは建設した」と言われるように、ティムールは中央アジアのサマルカンド、シャフリサーブスなどの都市を復興し、征服した各地からさまざまな分野の職人や芸術家、学者を連行し、建設にあたらせた。首都サマルカンドのまわりに、ミスル(カイロ)、ダマスクス、バグダッドなどの名を付けた村を建設し、サマルカンドが世界の中心であることを誇ったという。現在のサマルカンドには、ティムールゆかりの中央寺院(ビビハニム・モスク)、ティムールと孫ウルグベクらの墓であるグルアミール廟の他、シャーヒズィンダ廟群などが残り、シャフリサーブスには巨大な宮殿跡などを見ることができる。

ティムールの人物像

 ティムールについては残忍、冷酷な征服者と入ったイメージがつきまとうが、その実像はどうだったのだろうか。同時代の史料には「彼の精神は強固で肉体も強健、確固として鋭敏で、まるで硬い岩のよう」で「冗談や嘘を好まず、歓楽や娯楽が彼を惹きつけることはなく……」、「大胆かつ勇敢であり、怖れられ服従された」と評されている。また、その軍事力を支える「勇敢な者たちや勇猛な者たちを愛し」、「命令や指示を決して取り消さず、決意の手綱を翻すことがなかった」という。またイブン=ハルドゥーンはティムールが「すこぶる知的で、すこぶる明敏な」人物であったと伝えている。字は読めなかったようだが、母語のテュルク語およびモンゴル語のほかにオアシスの言語ペルシア語をも使用し、歴史・医学・天文学に関心が深く、その知識はイブン=ハルドゥーンをも驚かせたという。その復元された頭骨の自然人類学的特徴は南シベリア型モンゴロイドに属し、シベリア=タタールに近いという。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.164/久保一之『ティムール 草原とオアシスの覇者』世界史ブックレット人36 2014 山川出版社 p.53-55>

Episode 復元された征服者の体と風貌

ティムール復元像
復元されたティムール像
 ティムールは若いときから乗馬と弓を得意とし、部族の仲間と付近を通るキャラバンを襲っては略奪を繰り返していた。あるとき敵に攻撃を受け乗馬を殺されたとき、右足に傷を受けて足が不自由になった。これ以後人から、ティムールレング(足の不自由なティムール)と呼ばれるようになったという。ヨーロッパ人はこれをなまってタメルランとよんだ。ある人の記録によると、彼は背がたくて肩幅が広く、大きな頭と濃い眉、長い脚、長い腕を持ち、右脚は不自由だった、という。1941年、ソ連の人類学者ゲラシモフがサマルカンドのグリ・アミール廟のチムールの遺骸を調査したところ、この記録が正しかったことが分かり、その頭蓋骨から外貌の復元が試みられた。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.91-92,114>
 右の写真がその復元されたティムール像である。科学的な復元とされており、かなりの程度、本人の真実の風貌を伝えているとみられている。写真もない時代の人物の風貌がわかるのはすごいですね。復元されたその風貌をみると、たしかに意志の強そうな、また厳しく敵を討つことに徹した征服者といったことが感じられる。

世界史上のティムール

 ティムールは14世紀末から15世紀初頭にかけて中央アジア・西アジアに強大な帝国を築いた覇者であり、モンゴルのチンギス=ハンと並び称されることもめずらしくない。同時代においても彼の活動に関する記録がペルシア語、テュルク語、アラビア語だけでなく十を超える言語で記されおり、ティムール自身も東は明朝の洪武帝、西はイベリア半島カスティリャとレオンの王エンリケ3世(廷臣クラヴィホをティムールのもとに派遣している。エンリケ航海王子の叔父、スペイン女王イサベルの祖父)、イギリス王ヘンリ4世(ランカスター朝の祖)、フランス王シャルル6世(百年戦争の最中のヴァロワ朝国王)などに親書を送っている。
 また、かつてヨーロッパ中心の世界史観では、ティムールの活動はキリスト教世界に都合のよい“結果”をもたらしたと強調されていた。ひとつはティムールが再三キプチャク=ハン国を攻撃したことによって「タタールのくびき」に苦しむロシアを救う“結果”になったこと、もう一つは1402年のアンカラの戦いでティムールがバヤズィト1世に勝利したことでオスマン帝国が弱体化し、ビザンツ帝国の滅亡が50年遅れるという“結果”になったことであるが、「いずれも表面的・結果的にはキリスト教世界への貢献とみなしうるが、ティムールにそのような意図があったはずはない。」
(引用)今、偏りの亡い世界史認識のなかでティムールの活動とその結果を位置づけるならば、以下のようにみるのが妥当であろう。元朝とイル=ハン国の衰退やチャガタイ=ハン国の分裂など、14世紀半ばに始まるモンゴル帝国瓦解ののちに、広く中央アジア・西アジアに新たな政治的秩序をもたらし、史上に名高いティムール朝文化(およびティムール朝ルネサンス)や、ティムール朝滅亡後も広く受け継がれる制度・習慣の礎を築いた。ティムールの子孫によるインドのムガル帝国はもとより、イランのサファヴィー朝や中央アジアのウズベク諸国家においても、ティムールとその子孫が遺したものが確実に継承されている。<久保一之『ティムール 草原とオアシスの覇者』世界史ブックレット人36 2014 山川出版社 p.4>
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書籍案内

間野英二
『中央アジアの歴史』
1977 講談社現代新書

加藤九祚
『中央アジア歴史群像』
1995 岩波新書

久保一之
『ティムール
草原とオアシスの覇者』
世界史リブレット36
2014 山川出版社