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ジョルダーノ=ブルーノ

イタリアのルネサンス末期、古代文献から学んだ地動説を説いたため、1600年にローマ教会によって異端として処刑された。

ジョルダノ=ブルーノ

Giordano Bruno

 天動説から地動説へと言う、人間の宇宙観が大転換を遂げる上で、16世紀の初めのコペルニクスに次いで16世紀末にジョルダーノ=ブルーノが現れ、17世紀初めにガリレイが登場した。彼らはいずれもローマ・カトリック教会からは異端として弾圧され、コペルニクスの書は禁書とされ、ジョルダーノ=ブルーノは処刑され、ガリレイは裁判で有罪判決を受けた。ガリレイの次のケプラーは地動説を数学的に証明し、17世紀末のニュートンによって揺るぎない学説として承認されるに至った。ジョルダーノ=ブルーノは1600年にローマ教会の宗教裁判によって異端として処刑され、中世的世界観の犠牲となったが、まさにその年はルネサンスの終わりに当たると考えられており、次の17世紀の科学革命の先駆者であった。

ヨーロッパ各地を遍歴

 ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600)は、ナポリの近くのノラに生まれ、17歳でドミニコ会修道院に入って修道士となった。しかし、彼は当時主流だったアリストテレス学説やスコラ哲学に疑問を持ち、様々なことで教会の教えに反逆するようになり、28歳の時にナポリを脱出、それ以後、イタリアを離れてヨーロッパ中を放浪しなければならなかった。ジュネーヴやトゥルーズなどを遍歴し、33歳のときにパリに滞在して、クザーヌスなどの影響を受けた著作を著した。さらに35歳から37歳までの三年間、ロンドンに滞在し、この間に『原因・原理・一者について』(1584年)、『無限、宇宙おおび諸世界について』(同年)、『英雄的狂気』(1585年)などの代表作を発表した。39歳でパリに戻り、さらにドイツ各都市を巡る旅を続けた。

異端として処刑される

 43歳のときヴェネツィアの貴族から招かれて彼の地に赴いたが、罠だと気がつく前に異端の疑いで逮捕されてしまった。ヴェネツィアの異端審問所に留置され、45歳のときローマへ送還された。ローマで7年間の獄中生活を送り、1600年に52歳で処刑された。彼は獄中の生涯で先述の宇宙論の主著の他、ラテン語の哲学詩三編を残している。
 ジョルダーノ=ブルーノはローマのカンポ・ディ・フィオーリ広場で異端者として火刑に処せられた。そのおり、いまわの際に有名な次のような内容の文言を残している。
「私に宣告を下されたあなた方のほうが、宣告を受ける私よりも、もっとおそれているのではないか」
<澤井繁男『ルネッサンス』2002 岩波ジュニア新書 p.99-100>

宇宙を無限に拡大

 ジョルダーノ=ブルーノは、15世紀にギリシアからもたらされたヘルメス文書という古代の科学に関する文献を解読し、物質をごく微細な原子(アトム)の集合体と見なし、人体から天体まですべての存在をアトムの離合集散で生成し分解すると宇宙観に達した。それは、彼が生まれる直前の1543年に発表されたコペルニクス地動説に最も近い宇宙観であったので、彼は熱心なコペルニクス論者となり、さらにそれを徹底した。
 つまり、コペルニクスの宇宙は太陽を不動の中心としてその周りを地球や遊星、恒星が回転するという有限な、閉じた世界であったが、ブルーノは太陽でさえ一個の恒星にすぎず、恒星はそれぞれ遊星群を伴って無限の宇宙を自由に運動している、と主張した。彼の説は自然観察をもとにしたものではなかったが、近代以降の宇宙観を直感によって先取りするものであった。しかし彼の説は、魔術に属するものとされ、教会は異端の宣告をした。そのため著作は発禁とされ、1600年に有罪判決を受け、ローマで火刑に処せられた。一般に、16世紀最末年の1600年のジョルダーノ=ブルーノの処刑を以て、ルネサンス時代の終わりとされる。
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書籍案内

澤井繁男
『ルネッサンス』
2002 岩波ジュニア新書