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ガリレイ/ガリレオ=ガリレイ/ガリレオ裁判

16~17世紀はじめのイタリアの天文学者。望遠鏡を用いて天体観測を行い、地動説を実証したが、宗教裁判で有罪とされた。

ガリレオ=ガリレイ
ガリレオ=ガリレイ(1623年の肖像)
田中一郎『ガリレオ裁判』p.33
 ガリレオ=ガリレイ Galileo Galilei(1564-1642) は16~17世紀のイタリアのフィレンツェで活躍した。その時代のヨーロッパは最大で最後の宗教戦争であった三十年戦争(1618~1648)の最中であり、また何度目かのペストが流行し、イタリアも分裂抗争が続いており、中世から近代への過渡期にあった。そのような中、ガリレオ=ガリレイはコペルニクス地動説を観測によって実証し、科学革命を代表する人物となったが、異端として訴えられ、ローマ教皇庁による宗教裁判が1616年、1636年の二度にわたってひらかれた結果、その学説は異端と判断され、有罪となって終身禁固の罰を言い渡された。それは科学が宗教によって抑圧された最後のできごとなり、その後次々と新発見が相次ぎ、科学革命が進展することによって西欧における科学の時代が展開する端緒となった。
 なお、ガリレイは教科書によってはルネサンスの項で取り上げられることが多いが、彼が生まれた1564年はシェークスピアの生まれた年であるとともにカルヴァンが死んだ年でもあり、またコペルニクスはすでに1543年に死んでいてガリレイとは同時代ではない。ガリレイが活動した17世紀前半はフランシス=ベーコンデカルトの活動と重なっており、彼の死んだ1642年にバトンを引き継ぐようにニュートンが生まれている。こう考えると、ルネサンスの時代の次に現れ、科学革命の時代を切り開いたと位置づける方がふさわしい。 → ガリレオ裁判

ガリレオ=ガリレイの歩み

 ガリレイの伝記はあまたあるが、ここでは近刊の田中一郎『ガリレオ裁判』を手がかりに、まとめた。<田中一郎『ガリレオ裁判』2015 岩波新書 などによる>
 ガリレオ=ガリレイは1564年、イタリアのトスカナ地方のピサに生まれ、ピサ大学ではじめは医学を学び数学と物理に興味を移したが、教授たちの権威に挑戦するくせがあり、卒業資格を取らずに大学を去った。4年間、プトレマイオスの天文学など古代の科学の著作を独学し、1592年(コロンブスの新大陸到達の年)、ピサ大学に復帰して教授となり、その後ヴェネツィアのパドゥア大学で研究する。この間は力学の諸法則を発見し、証明することに成功して名声が上がった。たとえば物体はひとたび運動を開始すれば、何らかの力(摩擦力のような)が作用しなければ、永久に同じ早さで一直線に動区ことを発見した。このことは天体がそれ自身に推進力が無くとも運動を続けていることへの説明となった。

望遠鏡で見た宇宙

 1609年の夏、45歳のガリレイは、オランダで発明された望遠鏡に二つの凸レンズを組み合わせて天体観測に使えるように改良した。ガリレオがその望遠鏡を天空に向けたとき、宇宙に関する古い観念を捨て去り、コペルニクスの理論を一層有利にする事実が明らかになった。例えば、完全な球体と考えられていた月の表面はでこぼこした不規則な形をしていた。金星を観測すると、月と同じように満ち欠けが見られ、自分で光っているのではなく太陽の光が反射していることが判った。そしてそれは地球ではなく太陽の周りを回っていることの証であった。望遠鏡による最も大きな発見は、木星の4っつの衛星の発見であった。それは地球と月の関係と同じように、運行しつつある天体が別の天体を回転させていることを明らかにした。彼は様々な発見を含む観測結果をまとめて『星界の報告』を発表した。

最初の宗教裁判

 この数々の発見で名声を上げたガリレイは、木星の衛星を「メディチ星」と命名し、トスカナ大公メディチ家に招かれ、大公付きの数学者としてフィレンツェで活動することとなった。しかしそのころからガリレイの発見を受け入れようとしない教会の聖職者たちは、彼を訴える準備を始めた。ガリレイ自身もカトリック信仰を持っていたので、教会からの告発は深刻な苦悩であった。1616年、最初の宗教裁判が行われ、ガリレイは自説の発表と教授を禁止され、あわせてコペルニクスの地動説もローマ教皇の禁書目録に加えられることになった。
 しかしガリレイは、聖書に書いてあることは古代のヘブライ人の見解にすぎず、キリスト教の教えそのものではないと割り切り、自己の研究を続け、1632年には『天文対話』を発表した。その書は天動説地動説に立つ二人の学者の対話を通じて、天動説を批判し、地動説の正しさをわかりやすく論証したものであった。彼はこの書を、学者だけでなくあらゆる人たちが読めるようにイタリア語で出版した。

二度目の宗教裁判

 それに対してイエズス会の宣教師たちはガリレイが1616年の裁判の決定を守っていないとして、強硬に非難した。そのため翌年、ローマで宗教裁判にかけられることとなり、すでに70歳になっていたガリレオはローマに連れて行かれ、監禁状態で裁判が進められた。本人欠席のまま審理が進められ、ほとんど弁解の機会は与えられず、1633年6月22日の判決はガリレイの説を異端説であると断定し、『天文対話』も禁書目録に入れられ出版が禁止された。ガリレイは終身禁固とされたが、翌年には減刑されてフィレンツェ郊外での自宅謹慎となった。その謹慎中も研究は続けられたようで、この間、1638年には『新科学対話』を著し、物体の落下運動についての研究を発表した。1642年1月、フィレンツェの自宅で、謹慎のまま許されることなく死去した。
 ガリレイは伝説の多い人であるが、ピサの斜塔から玉を落下させる実験を行ったというのは伝説であり、実話ではない。また有名な、裁判の判決後に〝それでも地球は回る〟と言ったというのも伝記作者の創作であったらしい。伝説で飾らなくともその生涯は輝かしい業績と同時に苦難に満ちていた。

350年ぶりの無罪

 1979年11月10日、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世は、アインシュタイン生誕100年の祝典のなかで、「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」と題する講演を行い、ようやくガリレオ裁判の見直しに着手した。そして、1983年に裁判が誤りであったことを表明、翌年調査委員会も同様の結論に達し、ガリレイは約350年ぶりに無罪が確定した。

参考 ブレヒトの『ガリレイの生涯』

 ドイツの劇作家で、『三文オペラ』や『肝っ玉母さん』などで知られるベルナルド=ブレヒトの戯曲に『ガリレイの生涯』がある。この作品はナチスの支配を避けてアメリカに亡命していたアメリカで発表されたが、1945年8月の広島への原爆投下を知り、大幅に書き換えられて戦後に上演された。ブレヒトはこの作品で、科学と政治権力の問題をとりあげ、ガリレイの地動説の証明から始まった近代科学が原爆を生み出したことを痛烈に批判し、科学の持つ意味を問いかけたのだった。近代科学が原爆に象徴されるような人間の不幸を生み出したことも現実であり、「科学の進歩」を手放しで礼讃できないことが明らかになったのが20世紀であった。<ブレヒト/岩淵達治訳『ガリレイの生涯』岩波文庫>


ガリレオ裁判

1616年と1633年の二度、ローマ=カトリック教会の宗教裁判によって、ガリレオ=ガリレイの著作がコペルニクスの地動説を正しいと主張したことが異端にあたるとして裁かれ、有罪とされた。

ナポレオンによる裁判資料の略奪

 ナポレオンは1796~97年のイタリア遠征に続き、1798年にフランス軍をローマに侵攻させ、教皇ピウス6世に退位を迫りローマ共和国の樹立を宣言した。その後もフランス軍は断続的にローマ占領を繰り返し、1810年にはローマ教皇庁に保管されていた全文書を没収し、フランスに運んだ。そのとき、ガリレオ裁判関係の記録もフランスに持ち去れた。ナポレオンはガリレイを近代的合理主義者として崇拝し、ローマ教皇と異端裁判の不合理政を明らかにするため、裁判記録のフランス語訳を行うつもりであった。その計画は彼自身の没落によって実現することはなく、文書の多くはローマ教皇庁に返却されたが、その3分の1は移送の途中で紛失してしまった。ガリレオ裁判関係の資料の多くもその時に失われ、残ったものがヴァチカンに戻されたが、その後長く公開されなかった。そのため、ガリレイは伝説の人物と化し、その裁判の実態は長く不明になっていた。
 ガリレオ裁判の実際が明らかになったのは、ごく最近のことであり、1979年の教皇ヨハネ=パウロ2世がガリレオ裁判の見直しを表明したことをきっかけに、81年にガリレオ事件調査委員会が設置され、それまでヴァチカン秘密文書庫に所蔵されていた関係資料が初めて公開されたためであった。それらの新資料をもとにガリレオ裁判を再構成した田中一郎氏の近著から、経緯をまとめておこう。

旧約聖書には何と書いてあるのか

 コペルニクスやガリレイの地動説が聖書の示す宇宙観を否定していると言っても、実際には聖書に「地球は動かず中心にあり、太陽がそのまわりを回っている」と天動説の記述があるわけではない。その根拠は『旧約聖書』の「ヨシュア記」(第10章12-13節)に
 ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。「日よとどまれギブオンの上に、月よとどまれアヤロンの谷に。」日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。
とあり、ヨシュアの祈りに応えて神が太陽と月の動きをとどめ、日没を遅らせたことが述べられていて、つまり、太陽と月は動いていたことが示されている、というものだった。この部分を根拠に、神学者は古代のアリストテレスやプトレマイオスの考えを当てはめ、地球は天空の中心にあり、太陽、月、惑星はすべてその廻りを回周しているという宇宙観は絶対のものであり、その他のものが現れたり、異なる動きをするはずはないと決めつけていた。
 ローマ教会が設けていた宗教裁判所は、このような聖書とカトリック教会の正統な宇宙観を否定する説教や書物の出版を取り締まり、聖書に反する思想を異端であると自覚させ、改悛させることを目的に設置されていた。ガリレイ以前では1600年にコペルニクス学説を正しいと明言した天文学者のジョルダーノ=ブルーノが異端と判定され、それを認めなかったため火刑にされている。

ガリレイ裁判

 ガリレイが望遠鏡で観測した結果は、惑星である木星にも衛星があってその周りを回っており、金星の大きさは一定でなく、満ち欠けしている(つまり地球の周りを回っているのではない)ことであった。彼は以前から、海水の干満は地球の自転と公転が原因と考えていた(この点は後にニュートンの万有引力説によって月の引力であることが判り、ガリレイは誤っていた)ので、地球は太陽の周りを回り、しかも自転していると考えた。
1616年の裁判 ガリレイが自己の新たな知見を『星界の報告』として出版すると、1616年にローマの宗教裁判所は「太陽は動かず、地球がその周りを回り、しかも自転する」というコペルニクスの地動説を異端と断定して禁書にした。ガリレイ自身は一つの仮説として提示したに過ぎないとして有罪を免れたが、その説を人に説いたり、教えたりしてはいけないという条件がつけられた。
1633年の裁判 裁判の後も天体観測を続けたガリレイは、新たな彗星が出現したこと、太陽に黒点があり変化することを知った。これらはますます「天体は不変である」という前提を危うくすることだった。1632年、ガリレイは『天文対話』を発表した。それは、古来のアリストテレスとプトレマイオスの学説を遵守する人物と、コペルニクスを擁護する人物の対話という形式をとり、地動説だけを主張、宣伝することを避けていたので、事前検閲は問題なく通り、出版された。しかし、後になってその出版は1616年の判決に違反していると告発したものがあり、ガリレイは再び被告としてローマの検邪聖省に召喚された。ガリレイはここでも自分の発見は聖書の記述と矛盾しないことを弁明し、無罪を主張した。しかし教皇をはじめとする異端審問官は、ガリレイの主張そのものより、ガリレイが1616年の裁判の決定「地球の運動と世界の中心にある太陽の不動性についての意見を、口頭であれ文書によってであれ、いかなる仕方においても、抱くことも、教えることも、あるいは擁護することも禁じる禁止命令」に違反していると判定した。こうして1633年6月22日、ガリレイはコペルニクスの地動説は誤った異端の説であると認める異端聖絶文に署名し、裁判が終わった。ガリレイはその間、拷問を受けた可能性はあるが、資料的には確認できない。処罰は終身禁固であったが、翌日、ローマ近郊のメディチ家別荘での軟禁に減刑された。これはトスカーナ公国メディチ家の駐ローマ大使が奔走した結果と思われる。
裁判の波紋 ガリレオ裁判の判決文はイタリア全土の異端審問官とヨーロッパ各地の宮廷に派遣されていた教皇使節、哲学と数学の教授のすべてに伝えることが命じられた。フランスの哲学者デカルトは、その判決を知って、すでに書き上げていた『世界論』が地動説を認める内容であったので、出版を取り止めたことを『方法叙説』の中で述べている。

その後のガリレイ

 ガリレイはメディチ家別荘での軟禁から半年後、自宅に戻ることができた。自宅軟禁であり人を呼ばず、来訪者と話してはいけないという条件が課せられていたが、次第ににその条件は緩和され、ガリレイはほとんど自由に研究を続けることができた。後に真空の発見者として知られるトリチェリなどを住み込みの助手として研究を続け、1636年には『新科学対話』を発表した。しかしそれには天文学は含まれず地上の力学について論じたものだった。自宅軟禁の処分は取り消されることなく、1642年1月8日にフィレンツェの自宅で永眠した。

Episode 「それでも地球は動いている」と言ったか?

 裁判の直後にガリレイが「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話はよく知られている。その話が出てくるのはその死後の100年以上たった1757年に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で「ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m(u)ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているがその出典は明らかでない。また、1911年に17世紀頃のガリレオの肖像と言われる絵が発見されその端に同じような言葉があったというが、今はその絵は失われている。つまり、この逸話には資料的根拠はなく、地動説が真実であることが判明した「18世紀のヨーロッパの人びとの願望を反映しており、蒙昧なカトリック教会に抗して真実を主張しつづけ、果敢に戦った英雄的科学者にふさわしいエピソードとして広まったのである。」<田中一郎『ガリレオ裁判』2015 岩波新書 p.206>


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9章3節 ア.科学革命と近代的世界観
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田中一郎
『ガリレオ裁判』
2015 岩波新書

ブレヒト/岩淵達治訳
『ガリレイの生涯』
岩波文庫