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コペルニクス

ポーランドの天文学者。16世紀初め、天体観測に基づき地動説を説き、近代天文学、科学への道を開いた。その説はカトリック教会から異端として否定されたが、その後、地動説はさまざまな観測で証明され、その発見は人類の宇宙観、世界観を一変させたので、「コペルニクス的転回」という言葉が生まれた。

コペルニクス
Nicolaus Copernicus
1473-1543
 コペルニクス Nicolaus Copernicus 1473-1543 は、ポーランド(リトアニア=ポーランド王国)の聖職者にして天文学者、同時に医者であった。彼の生きていた時代は、誰もが地球は宇宙の中心にあって動かず、太陽をふくめて天体はすべて地球の周りを回っているという天動説を信じていたが、コペルニクスは天体観測を重ねることによって、太陽は万物の中心なって動かず、地球はそれ自身一つの天体であって太陽の廻りを年に1度の周期で回転しており、しかも1日に1回、自転を行っていると主張した。天動説に対して地動説と言われる彼の見解は、その著作『天球の回転について』が死去した1543年5月24日にようやく出版されたことによって、次第に人々に知られるようになり、キリスト教的宇宙観に大きな衝撃を与え、その思想と活動はルネサンスの文化運動の一つと見ることができる。『天体の回転について』の初版がその元に届いた、

コペルニクス的転回

 このようなそれまで絶対の真理とされていた天動説に対して、180度見方を転換させたコペルニクスの地動説は、〝コペルニクス的転回〟としてよく比喩表現に用いられる。17世紀の前半にフィレンツェで活躍したガリレオ=ガリレイは望遠鏡の改良を行い、天体観測を重ねた結果としてコペルニクス説が正しいと主張したが、宗教裁判によって否定された。コペルニクスの説が真理として広く受け入れられるのは17世紀の科学革命を経て、18世紀を待たなければならなかったが、その知見は人々を科学的な世界観に転換させ、近代の天文学や諸科学の基礎となった。
 以下、コペルニクスの歩みをA.アーミティジの『太陽よ、汝は動かず―コペルニクスの世界』を中心にして見ていこう。

若きコペルニクス

 ニコラス=コペルニクスは1473年2月19日、現在のポーランドのヴィスワ川中流のトルンに生まれた。コペルニクスはポーランド人であるが、トルンはかつてはプロイセン人が居住し、ドイツ人の東方植民が盛んになってドイツ騎士団プロイセン公国を建国するとその領地に編入された。そんなところからドイツではコペルニクスはドイツ人だという人もいるが、家系はポーランド人であることは間違いない。父は豊かな商人であったが10歳の時に死別し、司教職にあった聖職者の叔父に引き取られて育てられた。当時のこの地方の学問の中心地であったクラクフ大学で、ラテン語をはじめとする基本的素養を身につけた。1496年、イタリアに留学し、まずヨーロッパ最古の大学の一つボローニャ大学で法学を学んだ。

イタリアで学ぶ

 当時、ルネサンスの全盛期にあったイタリアでは、ギリシアの古典古代の科学知識がもたらされ、アリストテレスやプトレマイオスの天文学が研究されていた。コペルニクスもボローニャで関心を天文学と数学に移していった。コペルニクスは一時ローマにも滞在したが、そのころのローマはメディチ家出身の教皇のもと、その息子のチェーザレ=ボルジアが暗躍していた時期であった。さらにパドヴァ大学で医学を学び、フェラーラ大学で法学の学位を取った。

「コペルニクスの塔」

 1506年、ポーランドに戻り、当時はエルムランドと言われた小領主のもとで司教代理として聖職に就きながら医者の仕事に当たり、フラウエンブルクの住居の一角に塔を築き、毎夜、天体を観測した。その塔は「コペルニクスの塔」といわれ、現在も残っているという。彼は医者としても高い評価を受けているが、当時は人体を天体と結びつけて解釈していたので、医学と天文学は密接に関係する学問体系だったのである。

地動説に行き着く

 天体観測を続けるうち、いくつかの遊星がアリストテレスプトレマイオスの天動説では説明のつかない動きをしていることに気がつき、太陽が動いているのではなく、地球が他の遊星とともにその周りを回っていること、そして地球自身も自転していることを確信するようになった。それによって1年の周期と、1日の昼と夜の交替を合理的に説明する地動説の体系を作り上げていった。コペルニクスはその研究成果を膨大な手稿にまとめていったが、その説を公表することは控えていた。

改暦問題

 当時ローマ教会では、ローマ時代以来のユリウス暦と実際の季節のズレが大きくなり、復活祭をいつに設定するかが大きな問題となっており、改暦の必要が急務とされていた。すでに天文学者として知られていたコペルニクスは、1514年にローマ教皇にローマに招かれ、改暦案を具申することとなったが、コペルニクスは、太陽や月の運動法則が明らかにされなければならないとして招請を断った。その30年後に、遂に公表を決意したコペルニクスは地動説をもとにした改暦案をローマ教皇パウルス3世に献じたが、ローマ教皇庁はそれを無視した。しかしこの時のコペルニクスの測定値は、1582年の教皇グレゴリウス13世のグレゴリウス暦の制定に用いられたのである。

宗教改革・プロイセン公国

 当時は1517年に始まる宗教改革の嵐がこの地に及んできた。ドイツ騎士団を率いる長老ホーエンツォレルン家のアルプレヒトは、カトリックのポーランド王と戦い、1525年に和平に持ち込んでプロイセン公国を認めさせるとともに、ルター派のプロテスタントに改宗した。コペルニクスのエルムランドもその戦争に巻き込まれたが中立を守り、コペルニクスも戦争の仲裁に立ち会っている。結果としてプロイセンに組み込まれたが、カトリックのコペルニクスはプロテスタントの君主に仕えなければならないという難しい立場となった。この時期、コペルニクスはプロイセン公国の通貨改革に携わり、領主がバラバラに発行していた通貨を統一し、悪貨の鋳造をやめさせて価格の安定を図るなど、経済官僚としても活躍している。

地動説の公表

 コペルニスクは、膨大な観測データをもとに詳細な地動説に関する論考を書いていたが、それを公表することはしないでいた。カトリックの聖職者として地動説を発表すると言うことが、カトリック教会に対する反逆になることを十分自覚していたからであった。しかし、コペルニクスが「地球が太陽の周りを回っている」と言っていることは多くの人に知られていた。そして、カトリック教会からはもちろん、プロテスタントからも「聖書の記述と異なる」地動説はとんでもない誤謬であり、人を惑わす妄説であると非難され、コペルニクスを気の触れた僧侶と揶揄する人たちもいた。しかしその晩年に近づいた1540年に、コペルニクスの学説に驚嘆した若い友人のレティクスという人の薦めで手稿の一部をニュルンベルクで公刊した。それに続いて、コペルニクスはついに手稿のすべてを印刷することを許した。彼の著作『天体の回転について』の初版がその元に届いた1543年5月24日、脳溢血と卒中の繰り返しで半ば麻痺状態に陥っていたコペルニクスは息を引き取った。

Episode コペルニクスをけなしたルター

(引用)カトリックがコペルニクスの教説をこれほど嫌っていたのであるから、その敵であったプロテスタントは熱心に新理論を迎え入れたろうと考えるかも知れない。しかし実際には、プロテスタントは、カトリックよりもっと徹底的といってよい位にコペルニクス体系を拒否した。・・・彼の著作が出版される以前にも、コペルニクスはルッターに手ひどく批判されていた。ルッターは口頭で次のように告発した。「天や太陽や月ではなしに、地球が回転するのだということを証明しようとする新しい天文学者は、ちょうど動いている馬車や船に乗っていながら、自分は停まっていて大地や樹木の方が自分を通り過ぎて動いているのだと考える男のようなものだ。ところがこれが現状なのである。誰でも賢明らしく見せるには、何か独自のもの、それも自分の最良のもを生み出さなければならない! この馬鹿者は全天文学を上下転倒しようとしている。しかし聖書が証明しているように、ヨシュアが止まれと命じたのは、地球ではなくて、太陽だったのである。」<A.アーミティジ/奥住喜重『太陽よ、汝は動かず―コペルニクスの世界』1962 岩波新書 p.117-118>
 つまり聖書主義に立つルターにとっては、聖書に書いてあることが絶対であり、聖書に太陽が動いているという記述がある限り、コペルニクスの地動説を受け入れることはできなかったのである。

コペルニクス学説のその後

 コペルニクスが死去したときに出版された唯一の著作『天体の回転について』は当時の学術の共通語であったラテン語で書かれ、6章からなる大部な書物で、アリストテレスやプトレマイオスの批判、観測法、その数学的理論を展開した上で、太陽を中心とした地球を含む惑星の回転論、さらに地球の自転、月の公転などの運行の法則などについて詳しく述べている。これらを総称して地動説と言っているが、その観測技術は簡単なもので、望遠鏡も用いておらず、現在から見れば不備が多い。また、太陽自身を宇宙の中心において不動のものと考え、すべての恒星もその周りを回っていると考えたことなどは、不完全なものであった。
 また発表当初は、プロテスタントから反発が上がったほどだったが、あまりに新規な説であったのでそれを理解できる人がおらず、ほとんど知られることはなく、カトリックの教皇庁からも無視の状態が続いた。しかし、地動説はその後、ジョルダーノ=ブルーノガリレオ=ガリレイによって、観測と理論化が深められるに従い、ようやく教皇庁も異端的な思想であるとして警戒するようになった。その結果、1600年にはブルーノは捕らえられて死刑となり、1616年にはコペルニクスの著作も禁書目録に登録されたのだった。ガリレイは1633年に裁判にかけられて有罪とされた。コペルニクスの著作が最終的に禁書目録からはずされるのは、実に1822年のことであった。