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マドリード

スペインの首都。1561年、フェリペ2世の時に建設された。スペイン共和国でも首都であったので内戦で戦場となった。

 イベリア半島のほぼ中心部に位置し、現在のスペインの首都。ただし、マドリードがスペインの首都となったのは、1561年にスペイン絶対王政の全盛期の王フェリペ2世が宮廷をこの地に定めてからであり、ヨーロッパ近代国家の首都の中でも、ローマ、パリ、ロンドンなどに較べ新しい都市である。また、スペインでは、商工業や文化面でカタルーニャ地方のバルセロナが優位であり、政治都市としてのマドリードは対抗心をもっているようである(サッカーのバルセロナとマドリードの試合を見ればわかる)。
 マドリードは、イスラーム教徒が9世紀に建設した要塞都市マジュリートにさかのぼり、レコンキスタの過程で、1081年、カスティリャ王国によって奪回された。カスティリヤとアラゴンが合同してスペイン王国ができてからも、カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)がしばしば滞在し、イタリア戦争の時、パヴィアの戦いで捕虜となったフランスのフランソワ1世はマドリードに贈られ、1526年、ブルゴーニュ、ミラノ、ナポリなどを放棄を約束したマドリード条約を締結して釈放された。

ハプスブルク=スペイン帝国の都

 カルロス1世は神聖ローマ皇帝として、帝国内を常に移動していたのでマドリードに留まってなかったが、次のフェリペ2世は神聖ローマ皇帝にはならなかったので、スペインの統治に専念し、1561年にマドリードに宮廷を定め、1563年からはエル・エスコリアル宮殿(修道院を兼ねる)の建設をはじめ、84年に完成させた。17世紀にはスペイン=ハプスブルク家の統治するスペイン帝国の首都という政治都市としての役割だけでなく、経済的にも繁栄して、人口もスペイン最大となった。

スペインの反乱の舞台

 1808年3月、ナポレオンのスペイン支配のも、ナポレオンが派遣したフランス軍が迫る中、スペインの反乱が始まり、5月にはマドリードの民衆も蜂起した。そのときはマドリード市民が多数殺害されたが、その時の様子はゴヤの『1808年5月3日』に生々しく描かれている。

スペイン戦争での戦場

 19世紀後半から20世紀初めまで、スペインは一時は共和制が実現したり、立憲君主政への復活、プリモ=デ=リベラの独裁など混乱が続き、1931年にはマドリードを首都にスペイン共和国が成立した。世界恐慌の影響によってスペインにもファシズムが台頭すると、マドリードに人民戦線内閣が成立、1936年にはファシスト勢力のフランコが反乱を起こし、スペイン戦争が開始された。マドリードの人民戦線政府は最後までフランコ軍に抵抗したが、1939年3月28日にマドリードが降伏、スペインはフランコ独裁政治のもとに置かれることになった。
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ノートの参照
8章4節 ウ.スペインの全盛期