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イベリア半島

ヨーロッパの西に連なり、ピレネー山脈で区切られた地域。地中海世界の西端に当たり、キリスト教とイスラーム教の交差する地域となった。現在はスペインとポルトガルが支配。

 ヨーロッパ大陸の一部を為し、ピレネー山脈で区切られた半島。西は大西洋、北はビスケー湾、東は地中海にそれぞれ面し、南はジブラルタル海峡でアフリカ大陸と隔てられている。現在はスペインとポルトガルの二国がこの半島に存在するが、世界史上はカルタゴの支配、ローマの属州、ゲルマン人の西ゴート王国の建国を経てイスラーム教勢力がジブラルタルを超えて浸透し、後ウマイヤ朝以降のムスリム系王朝が続く。その間、イベリア半島はキリスト教とイスラーム教の抗争が続き、レコンキスタの歴史が展開された。その過程で主権国家としても最も早い統一国家を形成させたスペイン王国とポルトガル王国の二国は、15世紀末に大航海時代の先鞭を切って海外に植民地を獲得ししていく。特にスペイン王国は一時ポルトガルを併合し、広大な海外領土を誇ったが、16世紀後半から急速にその地位をイギリスやオランダに奪われていく。

カルタゴの支配とポエニ戦争

 地中海に面する地域は古くから東方との交易が盛んで、フェニキア人とギリシア人の植民市が建設された。フェニキア人が北アフリカに建設したカルタゴが西地中海で有力となり、前6世紀中ごろその勢力がイベリア半島のギリシア系都市を制圧した。カルタゴはイベリア半島の鉱物資源を得て、ひろく西地中海で交易を行った。カルタゴがローマと覇を競ったポエニ戦争が起こるとカルタゴはイベリア人を傭兵として戦った。第1次ポエニ戦争でシチリアを失ったカルタゴは、イベリア半島の経営に力を注ぐようになり、カルタゴ=ノヴァ(現在のカルタヘナ)を建設して拠点とした。他に、バレンシア、バルセロナ、アルメリアなどがカルタゴが建設した都市である。

ローマの属州ヒスパニア

 第2回ポエニ戦争ではハンニバル軍がカルタゴ=ノヴァから陸路東進し、アルプスを越えてイタリア半島に攻め込んだ。それに反撃したローマはスキピオ(大)がイベリア半島に攻め込み、カルタゴ軍を制圧した。さらにザマの戦いでカルタゴ軍は敗北した。この間、前205年にローマはイベリア半島を属州イスパニアとした。ラテン語のヒスパニアから現在の英語のスペインが生まれた。なおローマの支配に対するイベリア人の抵抗もあり、ローマの半島支配が確立したのは前133年であった。属州ヒスパニアからローマに流入した安価な穀物はローマ共和政の社会を変質させる要因となった。ローマ帝国のローマの平和(パックス=ロマーナ)の時代には属州支配は安定し、都市を結ぶ道路や水道路などが建設され、現在も半島各地にローマ時代の建造物が遺跡として残されている。またブドウ酒やオリーブ油の産地として経済も繁栄した。3世紀末のディオクレティアヌス帝の時代にはイベリア半島の属州は5つに分割された。この時期にローマ文化(ラテン語など)が半島に浸透するとともにキリスト教も伝わり、信者も増加した。ローマ時代にはヒスパニア出身でローマで活躍した人物も多く、ストア哲学者セネカ、五賢帝にあげらているトラヤヌスハドリアヌス、キリスト教を国教としたテオドシウスなどがいる。

西ゴート王国

 ゲルマン民族の移動期にはまずヴァンダル人がこの地に入ったが、彼らはさらにジブラルタルを超えて北アフリカに移動した。次いで西ゴートがこの地に入り西ゴート王国を築き、都をトレドにおいた。西ゴート王国は一時はフランス南部も支配して強大となり、ヴァンダル王国や東ゴート王国がユスティニアヌスのっひが史ローマ帝国に滅ぼされても、この国は存続した。

イスラームの侵入

 711年、ジブラルタル海峡を渡って北アフリカからウマイヤ朝のイスラーム勢力が侵入、713年に西ゴート王国を滅ぼし、北方のアストゥリアス地方をのぞいたほぼ半島全域を支配することとなった。イスラーム支配地域はアンダルス(かつてこの地を支配していたヴァンダル人の地、の意味。現在のスペイン南部の地方名アンダルシアの語源)と言われた。8~15世紀の約800年にわたるイスラーム支配の時期は、イベリア半島の文化に強い影響を残している。

後ウマイヤ朝

 バグダッドにアッバース朝が成立すると、ウマイヤ朝の一族がイベリアに逃れ、後ウマイヤ朝を樹立し、都をコルドバとした。10世紀には、アブド=アッラフマーン3世がカリフを称し、その都コルドバは学問、文芸の中心地としてヨーロッパのキリスト教国からも人々が集まってきた。しかしカリフの地位をめぐって内紛が起こり、1031年には後ウマイヤ朝は滅亡し、半島各地のイスラーム王朝は分裂することとなった。このようなイスラーム小国の分裂状態をターイファという。

ムラービト朝とムワッヒド朝

 そのような状況を背景に11世紀中頃からキリスト教徒の勢力回復がである国土回復運動(レコンキスタ)運動が活発になったが、11世紀末からはムラービト朝、12世紀にはムワッヒド朝というあらたなイスラーム勢力(ベルベル人=モーロといわれた)の侵攻を受け、国土回復運動の勢いは、一時後退した。

国土回復運動の進展

 1212年のカスティリヤを中心としたキリスト教軍とムワッヒド朝イスラーム勢力のラス=ナバス=デ=トロサの戦いでキリスト教軍が大勝してから形勢は逆転し、それ以後はイスラーム勢力は後退をかさね、グラナダ王国のナスル朝を残すのみとなった。

カスティリヤ・アラゴン・ポルトガル

 レコンキスタの過程で、半島にはカスティリヤアラゴンポルトガルなどのキリスト教の小国が生まれ、前二者が合同してスペイン王国(イスパニア王国)が生まれた。1492年にイスラーム勢力最後のナスル朝の都グラナダが陥落によって完了する。
 これらのイベリア半島諸国は国土回復運動でのイスラーム教徒との戦いの中で、強固なカトリック信仰を持つようになったが、同時にイスラームの影響を受けて独自の文化を発展させ、現代に至るまでヨーロッパでも特色のある地域となっている。半島の北西にあるサンチャゴ=デ=コンポステラは、キリスト教の聖地の一つとして、多くの巡礼が訪れている。
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第6章3節 ウ.スペインとポルトガル