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スペイン内戦/スペイン戦争

1936年7月~39年3月、スペインでの人民戦線政府とフランコの指揮する軍部の間の内戦。ファシズムの台頭という世界情勢の中で、イギリス・フランスは不干渉政策をとったが、ドイツ・イタリアは反乱軍を、ソ連と国際義勇軍が政府を支援して国際的な戦争の様相を呈し、また第二次世界大戦に先行する戦争となった。

 1936年のスペイン戦争開戦に至るまでの世界情勢とスペインの動きについてはスペインおよび、スペイン革命の項を参照して下さい。

軍部の反乱の開始

 1936年1月のスペイン総選挙で共和派・社会主義者・共産党などからなるスペイン人民戦線派が勝利し、2月に首都マドリードに人民戦線内閣が成立すると、ただちに軍部はクーデタの準備に入り、各地の将軍間で連絡を取り、一斉蜂起を計画した。7月17日、モロッコのメリリャで反乱軍が蜂起し、政府軍大佐を銃殺、労働組合・人民戦線の指導者を逮捕し、本土のむけて「異常なし」と打電した。これがクーデタ開始の合図だった。18日早朝、カナリア島ラス=パルマスにいたフランコ将軍はクーデター宣言を放送した。これはスペインでそれまでも政治危機の時によく見られた軍部の蜂起宣言(プロヌンシアミエント)であった。それに呼応して19日、スペイン全土で反乱軍が蜂起した。ファシストのファランヘ党などが同時に蜂起したがデモなどの大衆的な反政府運動は起こらなかった。軍の反乱の知らせを聞いた労働者は、「労働者に武器を!」と叫び政府に迫ったが首相キローガは収拾の目途が立たず辞任、次の首相もすぐ辞任した後に首相となったホセ=ヒラールが労働者に武器を与えることを決意、義勇軍が組織された。首都マドリードを初め各地に民兵委員会が生まれ、アナーキストも含む政府支持の民兵が組織された。

内戦から戦争へ

 2,3日で全土を制圧し共和国政府を倒して軍事政権を樹立することを想定していたフランコ軍は、武装した労働者の頑強な抵抗を受け、マドリード、バルセローナ、バレンシア、マラガ、ビルバオなどの主要都市ではいずれも政府側が反乱を鎮圧した。反乱には軍隊の将校の大半と兵士の75%が荷担したが、その占領地はモロッコと、本土ではカディス、セビリア、北部地方など国土の半分近くにとどまった。
 以後、スペインは共和派ブルジョワジーと労働者の政府軍民兵と、軍=ファシストにモロッコのムーア人部隊を加えた反乱軍が一進一退を繰り返す内戦状態が続くが、それは当時緊迫した世界情勢の中で、ファシズム国家と反ファシズム国家の対立と結びついて国際化し、外国軍、外国の義勇兵も加わって、「戦争」の形態へと深化していく。

ドイツとイタリアの参戦

 フランコ軍は8月に入るとモロッコのムーア人部隊を本土に上陸させて攻勢に移り、さらにフランコはナチスドイツのヒトラーとファシストイタリアのムッソリーニに心情的に近く、その両国に支援を要請、それに応えて積極的な軍事援助が行われた。ヒトラー、ムッソリーニは人民戦線をソ連=コミンテルンによる謀略と宣伝して、反共産主義の理念を戦争参加の理由としたが、実際にはスペインの鉄鉱石などの地下資源を手に入れること、またフランスとの全面戦争に備えて、特にドイツでは再軍備したばかりの軍隊が実戦訓練をする格好のチャンスだと考えたことが理由としてあげられる。特に空軍を指揮するゲーリングはそのような意図が強かった。
 ヒトラーとムッソリーニは実はオーストリアに対する利害が対立しており、関係は良くなかった。しかしスペイン戦争への支援は、両国を近づける契機となった。イタリアは当時エチオピア併合を開始してイギリス・フランスから非難されていたこともあり、ドイツと協力することを得策と考えるようになっていた。そこでイタリアはオーストリアをドイツが併合することを暗に承認して、提携することとなった。それが1936年10月のベルリン=ローマ枢軸の成立である。スペイン人民戦線派民兵は、スペインのファシストと戦っただけでなく、ドイツ・イタリアのファシスト国家とも戦ったのである。
 なお、隣国ポルトガルは、当時サラザールによる独裁政治体制がすでに成立しており、サラザール政権は人民戦線を敵視していたので、反乱軍に協力し、反乱軍はポルトガルを経由して内陸に攻め込むことが可能になり、またポルトガルは反乱軍の兵站基地となった。また人民戦線側の兵士がポルトガルに逃れると逮捕され、フランコ軍に送り返された。

Episode 詩人ガルシア=ロルカの死

 ガルシア=ロルカは、詩集『ジプシー歌集』や劇『血の婚礼』などで知られた詩人であった。政治活動はしていなかったが、共和派を支持することを公言していた。彼はフランコ派の占領していたグラナダに出かけていって、村の祭りに参加しようとした。友人はフランコ派に属していたので、来たら捕まると言って警告したが、ロルカは出かけた。訪ねた友人はたまたま不在で、ロルカはフランコ派の「黒組」に捕らえられ、他の共和派と一緒に村の外れで自分の墓穴を掘らされ、銃殺された。その死は世界中に知られ、フランコ派の残虐行為が広く非難されることになった。ロルカの墓には三本のオリーブの木が植えられた。ロルカの詩はジプシー(ロマ)の土俗とシュールな新しさが溶け合い、その最後の予兆となるような死のイメージが濃厚である。『ロルカ詩集』(みすず書房)にはその墓の木の写真が載っているが、今はどうなっているのだろう。長谷川四郎訳『ロルカ詩集』1967 みすず書房 p.139>

フランスの対応

 反乱開始直後の7月20日、スペイン共和国政府はフランスの人民戦線政権であるブルム首相に電報を送り、支援を要請した。6月5日に首相となったばかりのブルムは、反ファシズムの共通目標を持つスペイン人民戦線政府からの要請にただちに応えることとした。同時にイギリスにも働きかけたが、イギリスの保守党ボールドウィン首相は人民戦線に好意を持っておらず、同調を拒否した。またフランス内にも大統領のルブラン他の強い反対があり、また右翼系新聞もドイツ・イタリアを怒らせるな、と支援反対の論陣を張った。共産党は支援を主張したが、社会党右派どは外交課題でソ連と同調することになるので反対した。こうして閣内はスペイン支援問題で分裂し、ブルム首相は結局正式な支援は断念した。なお、フランスがスペイン政府を支援しなかった理由としてモロッコ問題もあげられる。フランコの反乱が失敗した場合、モロッコの民族運動が再び高まり、かつてのリーフ戦争のような独立戦争がフランス領モロッコ、さらにアルジェリアに波及することを恐れたのである。

不干渉政策

 1936年8月8日、フランス政府は、スペイン内戦に一切の干渉を行わず、一切の武器・軍需品をスペインに輸出しないと決定した。フランスとイギリスは以後一貫して不干渉政策をとる。フランスは不干渉政策をドイツ・イタリア・ポルトガルにも守らせることによってスペインを助けることになると判断し、国際会議を呼びかけた。この三国とも表だっては内戦不介入の顔をしていたのでフランスの提案を受け入れ、ソ連も含めて9月9日に27カ国がロンドンに集まり、不干渉委員会の国際会議が開催された。各国は原則的な不干渉に同意したが、ドイツ・イタリアは平然とそれを無視して反乱軍を支援し続けた。その論理は、不干渉は正式政府間だけの取り決めであり、政府ではない個人向けに輸出するのは問題ない、というようなものであった。逆にスペイン政府は正統な政権として外国軍の支援を受ける権利があったが、それは阻まれた。唯一、ソ連はスペイン政府に対する軍事支援を表明した。
 スペイン政府はこのようなドイツ・イタリアの反乱軍への武器貸与を国際連盟に提訴した。しかし国際連盟は、この問題は不干渉委員会にまかせるとして取り上げなかった。このようにイギリス・フランスの不干渉委員会の存在は、国際連盟が任務を放棄する口実ともされた。国際連盟が取り上げたとしてもドイツ・イタリアはすでに脱退していたので効力は期待できなかった。

ソ連の支援

 1936年秋になると、反乱軍の占領地域での労働者や市民に対する残虐行為が世界中に知られるようになり、イギリス・フランスの不干渉政策も人道上問題であるという世論が強まった。戦局は9月末に反乱軍がマドリードに迫り、全土の3分の2を制圧した。このころ、イギリス・フランスの不干渉政策を批判して、ソ連は積極的な共和国支援を打ち出し、ドイツ・イタリアの不干渉政策違反に対抗して武器支援を開始した。その正確な戦力は不明だが、航空機や陸上部隊が相当数地中海経由で海上から共和国政府側に提供(実際には売却)した。
 なお、アメリカ合衆国も従来の外交政策であるヨーロッパの紛争に対する不介入の姿勢を守り、中立という建前を取っていたが、実際にはフランコ軍にテキサスの石油を提供していた。
(引用)フランコを助けたものはナチス・ドイツとファシスト・イタリアだけではなかった。スペイン共和国を破壊するために、アメリカ合衆国、イギリス、フランスは、ドイツ=イタリアと「協力」したといってもよい。やがて第二次世界大戦において敵味方となる西欧諸国とファシズム諸国は、フランコを助ける上では、公然とまたは隠然と、共同していたのであった。アメリカやイギリスなどの国々は公然とフランコを支持したわけではない。また、これらの国の人で直接にフランコ側に立って戦闘に参加したものはあまりいなかったようである。しかし、アメリカ合衆国は物資によってフランコを助け、イギリス・フランスは「不干渉政策」によってスペイン共和国を敗北に落とし入れたのである。<斎藤孝『スペイン戦争』1961 中公新書 p.115>

フランコの台頭

 反乱軍の中心的指導者は当初、モラ将軍であり、人気があったのはラジオ演説が大好きなデ=リャーノ(ラジオ将軍とあだ名された)であったが、ドイツ・イタリアの援助を得るのにパイプとなったフランコ将軍が次第に力を振るうようになり、9月末に主導権を獲得、10月1日に一種のクーデタで勝手に「国家元首」を名乗り、ヒトラーの総統(フューラー)を真似てカウディーリョ(統領)と呼ぶことを決めた。その与党として「統一ファランヘ党」を唯一の政党として認め、他を禁止した。

人民戦線の内部対立

 一方共和国政府の大統領アサーニャは人民戦線の強化を図り、1936年9月、社会党左派のラルゴ=カバリェロに組閣を命じ、この内閣に初めて共産党が入閣した。これは共産党がブルジョワ政府の閣僚となった世界史上最初の例である。さらにこの内閣にはアナーキストも入閣した(アナーキストの中にはあくまで政権参加を拒否する人々も多く、分裂した)。こうしてブルジョワ共和派から社会主義者、共産党、アナーキストを含む文字通りの人民戦線内閣となった。
 しかし各党派はフランコ軍・ファシストと戦う点では一致していたが、根本的な戦略では違いが大きく、複雑な対立関係があった。次に主要な三派の概略をあげる。
・共産党は1921年に創設されていたが、スペインでは小政党に過ぎなかった。コミンテルンの指示に従い、プロレタリア革命を目指すのではなく、民主主義共和国を擁護する人民戦線戦術への転換を明確にして、ファシストとの戦争に勝つことを最優先する姿勢をとった。カタルーニャではPSUC(カタルーニャ統一社会党)と称してコミンテルンに所属し、スペイン共産党とは別個に人民戦線に参加した。これらの共産党勢力はソ連の軍事支援を受けてフランコ軍との戦いの主力となっていく。特にマドリード防衛では女性指導者ドロレス=イバルリ(ラ=パッショナリア)が人望を集めた。
・マルクス主義統一労働者党(POUM)は共産党を個人崇拝と官僚主義に変質したソ連共産党に従属するスターリニストとして批判し、スペイン革命をプロレタリア革命に転化させよ、と主張していた。人民戦線には当初参加したが共産党との対立から、途中で脱退した。フランコとの戦闘では積極的に闘ったが、党員数は少なかった。共産党はPOUMをファシストに力を貸すにすぎないとして非難し、トロツキストと規定したが、トロツキー自身はPOUMとは関係がないと言っている。イギリスの作家ジョージ=オーウェルはPOUM民兵として参戦した。
アナーキズムの思想で行動するアナーキストは、議会政治や軍隊などの国家機関を否定し、労働組合の自発的な社会管理(アナルコ=サンディカリズム)を主張していた。スペインでは19世紀70年代からカタルーニャの工業地帯でバクーニンらのアナーキズムの影響を受けた労働組合運動が盛んだったことが特徴的である。アナーキストはスペイン戦争の前半で最も戦闘的にフランコ軍と戦ったが、同時に資本家や地主、聖職者を容赦なく殺害するなど恐怖心を与えた。アナーキスト派の民兵を率いるボナベントゥラ=ドルティは最も勇敢かつ容赦なくファシストと戦っているということで大衆的にも最も人気が高かった。現代ドイツの作家エンツェンスベルガーの『スペインの短い夏』はドルティに焦点を当てている。

マドリードの攻防

 1936年10月、フランコ軍はモロッコからの増援部隊を得て首都マドリードに迫り、ドイツ・イタリアの空軍による爆撃を開始した。マドリード陥落は時間の問題とみられ、世界中が注目する中、人民戦線は予想外の抵抗を続け、2年半持ちこたえる。共産党の女性指導者ドロレス=イバルリが先頭に立ってバリケードを作り、「奴らを通すな!(ノー、パサラン)」を合い言葉に戦った。燃料や食料が不足する中で戦い続けるマドリード市民に対して、世界中から同情と支援の声が起こり、国際義勇兵としてマドリード防衛に参加する者も多かった。
 11月、フランコ軍が2万の兵力で総攻撃を開始、大統領アサーニャと政府はマドリードを出てバレンシアに避難した。しかし残った市民と民兵はなおも頑強に抵抗、ドルティの率いるアナーキスト大隊が応援に駆けつけて側面からフランコ軍を攻撃したため、フランコはマドリードに入城できなかった。しかしドルティはこの戦闘で腹部に銃弾を受けて戦死した。

国際義勇軍

 1936年11月8日に国際義勇軍は市民の熱狂的な歓呼に迎えられマドリードに姿を現した。ドイツ人、フランス人、ベルギー人、ポーランド人その他世界各国の市民が個人の資格で義勇兵となり、市民とともに戦った。国民義勇兵を組織的にスペインに送ったのはコミンテルンであった。コミンテルンが各国共産党を通じて募集し、資金と旅券を準備してスペインに送った。国際義勇兵の正確な数は不明だが、フランス人1万、ドイツ人5千、イタリア人3350、アメリカ人2800、イギリス人2千、その他カナダ、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、スカンディナヴィア諸国、その他50ヵ国以上が含まれていた。また、国際義勇兵にはフランスのアンドレ=マルロー、アメリカのヘミングウェー、イギリスのジョージ=オーウェルなどの著名な作家が参加し、多くのルポルタージュなどを残している。
 フランコ軍のマドリード攻撃が手間取っている間、ドイツ・イタリアは反乱軍がブルゴスに設けた臨時政府を公認し、軍隊を義勇兵と称して送り込んだ。イギリスとフランスの政府はそれでも不干渉政策を改めず、全面的な国際義勇兵の参加を禁止する措置をとり国境監視を強めた。マドリードの戦闘が一進一退を続ける中、各地で戦闘が広がり、1937年3月にはマドリード北方のグァダラハラでイタリア正規軍が人民戦線民兵に敗れて多数の捕虜がでたため、イタリア正規軍の介入が明るみに出て国際的な非難が高まり、ムッソリーニが激怒するという事態となった。

ゲルニカ空爆

 マドリード戦線の停滞、グァダラハラの敗北によってフランコは戦線をスペイン北部に転じた。ビルバオを中心としたバスク地方は工業先進地域で独立心が強く、人民戦線政府も認めて36年10月に共和派・社会党・共産党が参加するバスク自治政府が成立していた。37年3月、反乱軍によるバスク攻撃が開始され、陸上と海上から包囲した。その上で4月26日、バスクの小さな町ゲルニカに対しドイツ空軍による空爆が三時間にわたって行われ、人口7千の町で死者1654人、負傷者889人を出し、まもなく陥落した。このドイツ軍の無差別空爆は、多くの市民を戦争に巻き込み、国際的な非難が巻き起こった。スペインの画家で亡命していたピカソは抗議を込めて大作『ゲルニカ』を描いた。

内戦の中の内戦

 人民戦線政府はイギリス・フランスの支援のない中で、フランコ軍・ドイツとイタリア軍の連合軍と戦った。国際義勇軍の支援を受けたが、それは個々の義勇兵の純粋な動機を越えて、ソ連・コミンテルンとその意図を受けた共産党の発言力を政府内で強めることとなった。すると共産党に反発するトロツキー派、アナーキストとの本質的な対立点が再び鮮明となっていった。首相の社会党左派ラルゴ=カバリェロはアナーキストに同調したので、政府内が共和派-共産党-社会党右派と、社会党左派-トロツキー派-アナーキストという二つの陣営に分かれていった。両派の対立は1937年5月、バルセロナで両派の銃撃戦となって火をふき、千人もの死者が出るという「内戦の中の内戦」となってしまった。ラルゴ=カバリェロは退陣し、人民戦線政府は内部から崩壊の危機に瀕した。その後の主導権を握った共産党・コミンテルンは、トロツキー派・アナーキストをファシストの手先として厳しい粛清を開始、両派は人民戦線政府から排除され、組織は壊滅していった。

ソ連-共産党の主導権

 人民戦線を構成する各派の中で、共産党の主導権が次第に強まっていった。
(引用)全般的な右傾は大体1936年10月~11月頃から始まるが、それはソ連が政府に武器を供給しはじめ、権力がアナーキストからコミュニストに移行し始めた時であった。・・・ソ連か介入しはじめるや、共産党の勝利は確実となった。第一にロシアの武器に対する感謝の念が、そして特に国際旅団の到着以来、共産党が戦争に勝利を収めそうに見えだした事実が、大いに共産主義者の威信を高めた。第二にロシアの武器は共産党およびそれと同盟する諸党派を通じて供給され、彼らの政治的反対者にはできるだけ渡すまいとされたことである。第三に非革命政策を宣言することによって、コミュニストは過激派がおびえさせたすべての人々を味方につけることができた。・・・共産党の党員は著しく増えた。増えたのは主として中産階級、商店主、公務員、士官、富農、等々であった。・・・最後に最も重要なことがだ、労働組合を基盤とした労働者の民兵は徐々に解体され、新しい人民軍のなかに再編成された。・・・この改組の主な目的は、アナーキストが彼ら自身の軍隊を持たないことを確実にすることだった。・・・外見上、ごく短期間にせよ労働者の国家のように見えていたものが、見る間に貧富の差のある普通のブルジョワ共和国へと化しつつあった。<ジョージ=オーウェル/鈴木隆・山内明訳『カタロニア賛歌』1938 現代思潮社 1966刊 p.53-55>

ファシスト連合軍の攻勢

 ファシスト連合軍は6月、バスク地方のビルバオを制圧、自治権を剥奪しバスク語を禁じた。マドリード近郊のブルネテでは7月の炎天下、ドイツの戦車に守られた反乱軍とソ連製戦車で武装した人民戦線軍という、事実上ドイツとソ連の第二次世界大戦の前哨戦となった戦いが行われ、人民戦線側が死者2万5千を出して敗れた(この時、国際義勇軍の中でただ一人の日本人とされるジャック=白井が戦死した)。北部戦線を制圧したファシスト連合軍は、37年10月末にバルセロナに移った人民戦線政府を追って、カタルーニャ総攻撃に転じ、38年1月からバルセロナ空爆を開始した。人民政府側は戦局を回復する最後の試みとして8月にエブロ河渡河作戦を敢行し、驚くべき粘り強さで10月までファシスト軍の進撃を食い止めた。

国際情勢の転換

 しかし、国際情勢は決定的にスペイン人民戦線を見殺しにした。1938年9月のミュンヘン会議でイギリス・フランスはヒトラードイツのズデーテン割譲を承認したのである。この宥和政策によってイギリス・フランスはヒトラーと妥協することで平和を維持しようとし、それを見たスターリンはイギリス・フランスに対する不信を強めてドイツとの提携に転じたのである。同時にスターリンはスペイン人民戦線に対する支援を打ち切ることを決意したと思われる。

戦争の終結

 1939年1月、カタルーニャ戦線のファシスト連合軍は、ドイツ・イタリア軍を含めて34万、人民戦線政府軍は9万。政府軍は武器弾薬も底をつき、バルセロナ市民は食糧も尽きる状態となった。多くの難民がフランス国境に押し寄せた。ついに1月26日、フランコ軍は人影のないバルセロナを占領、人民戦線政府のアサーニャなど首脳は徒歩でフランスに逃れた。2年以上にわたって抵抗していたマドリードでは、守備隊がクーデタで共産党などを排除し、降伏を決定、3月28日に降伏した。フランコは全ヨーロッパに内戦の終結を放送、最後に残ったバレンシアも30日に陥落して、スペイン第二共和政は7年数ヶ月で倒れ、亡命政権となった。<以上の経過は主として斎藤孝『スペイン戦争』1961 中公新書による>
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ノートの参照
第15章4節 イ.ニューディールとブロック経済
第15章4節 カ.ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成
書籍案内
スペイン戦争
斎藤孝
『スペイン戦争
―ファシズムと人民戦線』
1966年 中公新書
ロルカ詩集
ガルシア・ロルカ
/長谷川四郎訳
『ロルカ詩集』
1966年 みすず書房
カタロニア賛歌
ジョージ=オーウェル
/鈴木隆・山内明訳
『カタロニア賛歌』1938
現代思潮社 1966
スペインの戦場
フランツ・ボルケナウ
『スペインの戦場』
1966 三一新書
スペインの短い夏
エンツェンスベルガー
/野村修訳
『スペインの短い夏』
1973 晶文社
コミンテルンとスペイン内戦
E.H.カー/富田武訳
『コミンテルンとスペイン内戦』
2010 岩波モダンクラシックス
DVD案内

ヘミングウェー原作
サム・ウッド監督
『誰がために鐘は鳴る』
ゲイリー・クーパー/イングリット・バーグマン主演

ホセ=ルイス=クエルダ監督
『蝶の舌』
フェルナンド・フェルナン・ゴメス出演
少年の見た1936年