印刷 | 通常画面に戻る |

レパントの海戦

1571年、スペイン、ローマ教皇、ヴェネツィアの連合艦隊がオスマン帝国艦隊を破った。

 1571年、スペイン全盛期のフェリペ2世、ローマ教皇ピウス5世、ヴェネツィア共和国のキリスト教三国の連合艦隊が、オスマン帝国(スルタンはスレイマン大帝が既に亡く、セリム2世)の海軍を破った戦い。
 当時オスマン海軍は、フランスと同盟しており、バルセロナとイタリアを結ぶスペインの船舶を襲うなど、地中海の制海権を握っていた。またセリム2世は、ヴェネツィアの拠点となっていたキプロス島を攻略した。地中海におけるオスマン海軍の脅威を除く必要に迫られたスペインとヴェネツィアはローマ教皇に働きかけ、フェリペ2世の異母弟オーストリア大公ドン=ファンの指揮下に278隻の連合艦隊を編成した。オスマン海軍はアリ=パシャの指揮下の224隻、両軍はアドリア海に口を開いたギリシア本土とペロポネソス半島の間のレパント湾(コリントス湾とも言う)で対戦した。結果はオスマン海軍の大敗となり、約190隻が沈められるか捕らえられ、アリ=パシャも戦死した。
レパントの海戦への誤解  この勝利は、キリスト教世界にとって、1538年のプレヴェザの海戦での敗北の屈辱を雪辱しオスマン帝国に対する最初の勝利となり、大きく宣伝された。そのため、これによってただちに地中海の制海権がスペイン側に移り、オスマン帝国は衰退に向かったと勘違いしてしまうことがある。しかし、それは誤っている。オスマン帝国は翌年には海軍を再建し、1574年にはチュニスを征服し、地中海制海権を回復している。その地中海支配はさらに17世紀まで続いているのであり、「スペインの興隆」というヨーロッパ側の歴史だけを見たときに陥りやすい誤りなので注意しよう。

Episode レパントの海戦とセルバンテス

 スペインの『ドン=キホーテ』の作者セルバンテスは若い頃このレパントの海戦に参加した。そのことは『ドン=キホーテ』の序文でも誇らしげに書いている。彼はこの戦闘で火縄銃の銃弾を左胸と左手に三発被弾した。左手はそのために切断したと本人は言っている。その後セルバンテスは海賊の捕虜となるという数奇な運命に見舞われる。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
8章4節 ウ.スペインの全盛期