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チュニス

北アフリカ、チュニジアの首都。マグリブ地方の中心として栄えた。

現在のチュニジアの首都。アフリカ北岸のマグリブ地方、地中海南岸のほぼ中央に位置して、古来交通の要衝であった。この近くにはフェニキア人のカルタゴが建設され、その滅亡後はローマの属州アフリカの中心地となった。一時ゲルマン人のヴァンダル王国が成立、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配に復した。

ベルベル人のイスラーム化

 その後はベルベル人の地域となっていたが、677年にウマイヤ朝のイスラーム帝国が、軍営都市(ミスルカイラワーンをこの地に建設し、8世紀初めまでにビザンツ帝国を駆逐し、さらにベルベル人地域への侵出の基地となった。以後、北アフリカのアラブ化が進み、現在のチュニジアはアラブ諸国の一つとなっている。 → イスラームの西方征服

アグラブ朝からファーティマ朝へ

 アッバース朝の時代の800年に、太守であったアグラブがこの地で自立し、カイラワーンを首都としてアグラブ朝を建設した。アグラブ朝はチュニジアを拠点にイタリア半島、シシリー島、コルシカ島、フランス南部に侵出し、地中海の一大勢力となった。しかし、909年にシーア派のイスマーイール派が建国したファーティマ朝によって滅ぼされた。ファーティマ朝は969年にエジプトにカイロを建設し、本拠地を移した。

ハフス朝の時代

 12世紀中ごろにはモロッコに起こったムワッヒド朝の支配がチュニジアにも及びマグリブ地方全域を支配した。チュニスにはハフス家が総督として駐屯したが、13世紀にムワッヒド朝の衰退に乗じて自立し、ハフス朝を開いた。1270年には第7回十字軍がチュニスに来襲したがハフス朝によって撃退され、フランス王ルイ9世はチュニスで陣没した。ハフス朝の時代の14世紀に活躍したイスラーム教徒の歴史家イブン=ハルドゥーンはチュニスの生まれである。

オスマン帝国の進出

 1534年にはバルバロッサ兄弟と言われて恐れられたトルコ人海賊の弟ハイル=アッディーン(バルバロス=ハイレッティン)によってチュニスが攻撃された。ハフス朝スルタンはスペインに援軍を要請、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は翌年チュニスを攻撃し海賊を撃退した。しかし1517年にエジプトのマムルーク朝を滅ぼしてその勢力を北アフリカに及ぼしてきたオスマン帝国は、スレイマン1世がバルバロッサを配下にして1538年のプレヴェザの海戦でカール5世とヴェネティアなどの連合海軍を破り、地中海の制海権を握った。その後、1574年にチュニスのハフス朝はオスマン帝国に征服され、19世紀までその支配を受けることとなる。

近代のチェニス

 19世紀末、帝国主義時代になるとフランスとイギリスがチュニジアをめぐって争った。露土戦争後のベルリン会議の結果として、ベルリン条約で、フランスはイギリスのエジプト支配を認める代わりに、チュニスに進出する権利を認められた。1881年、フランス軍がチュニスに上陸、保護国化を強行すると、チュニスの対岸のイタリアが反発しドイツ・オーストリアと接近して三国同盟を結成した。

現代のチェニス

  第2次世界大戦中はドイツが占領、1943年からの連合軍との北アフリカ戦線の激戦地となった。1956年、フランスから独立したチュニジアの首都となる。
 現代では2010年春の「アラブの春」と言われる、アラブ圏での独裁政権が一斉に倒れた動きの最先端を切った。

Episode 多民族、多文化のチュニス

 現在のチュニスを訪ねると、その多民族、多文化の混在した独特の歴史遺産を見ることが出来る。カルタゴの古跡からほんの15キロのチュニスの旧市街にはチュニジア独立の英雄、ブルギバ初代大統領の名前をとった通りがあり、その一角にはイブン=ハルドゥーンの銅像が建っている。チュニジアの誇りだ。周囲はほぼ4キロの城壁に囲まれ、市内にはイブン=ハルドゥーン時代のモスクが残っている。スーク(市場)には狭い街路に無数の店が建ち並ぶ。旧市街には、キリスト教徒の一角がある。それは中世以来取引が続いたヨーロッパ商人の街だ。南よりの一帯のアンダルス地区はレコンキスタを避けてイベリア半島から逃れてきた人々が居着いたところだ。北側にはユダヤ人居住区があり、ユダヤ人は都市機能の重要な部分を担っていた。さらにトルコ人地区もある。16世紀のオスマン帝国の征服以来、軍隊と共にやってきた官吏たちが定住したところだ。このようにチュニスにはマグレブのベルベル人を基層として、ヨーロッパ人、アラブ人、アンダルス人、ユダヤ人、トルコ人などの文化が重層しており、まさに「地中海史」そのものと言うことができる。<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.40-43>
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第5章1節 イ.イスラーム世界の成立