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ハプスブルク帝国

15世紀の神聖ローマ帝国以来、ハプスブルク家が皇帝として君臨した国家の総称。

 ハプスブルク家は、スイスの小領主から頭角を現し、ドイツ有数の領邦としてのオーストリアを領有し、13世紀に神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ王)となった家系。特に、15世紀のアルブレヒト2世(1438~39)・フリードリヒ3世(1440~93)以降は皇帝位を世襲、独占し、1806年まで皇帝位を継続する。この間、15世紀末~16世紀初めマクシミリアン1世が、積極的な婚姻政策を展開、ネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)、スペイン、南イタリア(ナポリ、シチリア)、ハンガリー、ボヘミアに及ぶ空前の領土をヨーロッパ大陸に持ったのみならず、スペイン領の新大陸やフィリピンなどの海外領土も支配した。
 16世紀前半のカール5世の時がその最盛期であり、彼は神聖ローマ帝国皇帝としてフランスのヴァロア朝フランソワ1世との激しいイタリア戦争を展開した。その後もハプスブルク家は全ヨーロッパの統合をめざしてフランスのブルボン家との間で、17世紀の三十年戦争、18世紀のスペイン継承戦争オーストリア継承戦争を戦い、一方でバルカン半島方面からの脅威となっていたオスマン帝国と積極的に戦った。

帝国の全盛期

 カール5世の死後1556年以降は、ハプスブルクの家系は弟のフェルディナンドの継承したオーストリア=ハプスブルク家と、子のフェリペ2世が継承したスペイン=ハプスブルク家の分かれることとなるが、スペインのハプスブルク家は1580年にはポルトガルを併合してさらに領土を広げ、「太陽のしずまぬ国」と言われた。このころがハプスブルク帝国の全盛期である。

帝国の動揺

 17世紀にはいるとオーストリア=ハプスブルク家の支配下のベーメン(ボヘミア)での新教徒の反乱から始まった三十年戦争(1618年から1648年)では介入してきたフランス軍との戦いに敗れ、アルザスを放棄した。戦争後のウェストファリア条約ではドイツ諸侯の自立が明確となって、神聖ローマ帝国のドイツ統治は実質的に終わったが、形式上の皇帝位は依然としてハプスブルク家が継承した。

絶対主義時代

 さらに18世紀初めにスペイン=ハプスブルク家が断絶すると、「ハプスブルク帝国」の名称は、オーストリア=ハプスブルク家の所領の、オーストリア・ベーメン(ボヘミア)・ハンガリー(1699年、カルロヴィッツ条約でオスマン帝国から獲得した)・北イタリア・南部ネーデルラントを総称することとなった(都はウィーン)。18世紀中期以降のヨーロッパ絶対主義諸国の抗争期にはマリア=テレジアがプロイセンのフリードリヒ2世(プロイセン王)と渡り合い、外交革命で宿敵フランスのブルボン家とも手を結ぶなど、巧みに難局を乗り切り、その子ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として農奴解放などの近代化をはかったが不徹底であった。

多民族帝国の動揺

 しかし、多民族国家としてのハプスブルク帝国は、「主権国家」の形成、さらに「国民国家」へという大きな流れ、民族運動の高揚という動きの中で維持することは困難となり、ナポレオンが1806年にライン同盟を結成すると、西南ドイツの16邦が神聖ローマ帝国からの脱退を表明したため、ハプスブルク家のフランツ2世は皇帝退位を表明し、名実共に神聖ローマ帝国の消滅した。

帝国の崩壊まで

 ナポレオン没落後のウィーン体制下では、ハプスブルク家はオーストリア皇帝として生き残り、なおもハンガリーなどを含む中欧に大きな勢力を維持したが、1848年のウィーンで起こった三月革命でナポレオン後のヨーロッパをリードしていた宰相メッテルニヒが失脚して帝国は大きく動揺し、帝国支配下の諸民族の独立運動が激化した。1866年には普墺戦争でプロイセンに敗れ、オーストリア=ハンガリー二重帝国に転換し、ハプスブルク家のフランツ=ヨゼフ1世はハンガリー王を兼ねる形となった。第1次世界大戦に敗れて1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体され、ハプスブルク家の帝位も完全に消滅する。
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ノートの参照
8章4節 ウ.スペインの全盛期