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マザラン

ルイ14世の前半の宰相として中央集権化につとめ国力を充実させ、巧みな外交でフランス絶対王政の全盛期を準備した。

 もとはイタリア人で教皇庁に仕える聖職者であったが、外交官としてフランスに来て、宮廷に仕え、リシュリューに見いだされて枢機卿となった。ルイ13世の死後、摂政アンヌ=ドートリシュに用いられて主席顧問官となり、以後1661年の死までブルボン朝ルイ14世の絶対王政の実権を握った。 その後マザランはフランスの中央集権化と、国際社会でのフランスの地位の向上に努め、1661年に死んだ。その後はルイ14世の親政が行われることとなる。

ウェストファリア条約

 まず、三十年戦争の講和会議に参加し、1648年のウェストファリア条約でオーストリア・ハプスブルク家からアルザス地方の実質的領有権を獲得した。フランスは次のルイ14世親政時代のさきがけとなる領土的拡張を成功させ、特にアルザス獲得によってその国境が初めてライン川に達した。マザランの外交上の大きな得点となった。しかし。スペインは最終段階でウェストファリア条約に加わらず、フランスとスペインの戦争は継続することとなった。マザランはそのため国内への課税を強めなければならず、条約締結後に激しい反対を受けることになった。それがフロンドの乱である。

フロンドの乱を鎮圧

 ウェイストファリア条約が締結された1648年、国内では三十年戦争の間に続いた増税策に反発した貴族たちが挙兵してフロンドの乱が勃発した。反乱ははじめ課税問題で国王と対立した高等法院をパリ市民が支援する形で始まったが、次第に貴族の中の反マザラン感情から拡大し、また地方の農民の増税に対する不満から一揆が起こり、全国的なものに広がった。貴族の反マザラン感情とは、マザランが進める国王への権力集中、中央集権化かが従来の貴族の既得権を奪うことになると言う不満から出たことであった。国王はパリを離れ、マザランは一時は亡命を余儀なくされたが、反乱を起こした貴族同士の争いが起こって、反乱は鎮圧され、1653年にマザランは政権を回復した。

ピレネー条約で領土拡張

 スペインとの戦争は決着がつかずなお継続されたが、1659年にようやく講和し、ピレネー条約を締結した。この条約でフランスは、アルトワなどの領地を獲得し、先のウェストファリア条約と共に、ルイ14世親政時代のフランス領土拡張の先駆となった。またピレネー条約に際して、ルイ14世とスペイン王フェリペ2世の娘マリア=テレサの婚姻を取り付けた。これは後にルイ14世がスペイン王位継承権を主張してスペイン継承戦争を起こす前提として重要である。

Episode ピレネー条約秘話

 ピレネー条約締結はスペイン王家出身のフランス王妃アンヌ=ドートリシュがマザランと画策したことであったが、はじめスペインが難色を示した。そこでアンヌとマザランは一計を案じ、隣国サヴォイア公国の王女マルグリットとのお見合いを発表した。この見せかけの見合いはルイ14世に走らされていたが、相手のマルグリットには知らされていなかった。縁談がまとまりかけたころ、スペイン王室からあわててマリア=テレサとの結婚に同意する知らせが届いた。フランスにとってはしてやったりと言うことだが、コケにされたサヴォイア公は怒り、たっぷりマザランから違約金をせしめたらしい。マルグリットの方がかわいそうな気がするが・・・。ところがまた難問が盛り上がった。今度はルイ14世がマリア=テレサじゃいやだ、と言いだした。実は、ルイは好きな女性がいたのである。その女性はマリ=マンチーニというイタリア女性で、マザランの姪に当たっていた。けして美人ではなかったが、ルイが病気をしたときに看病してくれたことがあり、その時から相思相愛の仲になっていたのだ。ルイはマザランにひざまずいて懇願したが、マザランはいかに自分の姪だとしても、国家の利益の方を優先させねば、ということでマリに言い含め、宮廷から遠ざけてしまった。悲嘆にくれる恋人たちをしりめに、ピレネー条約は調印された。<長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』2002 講談社選書メチエ p.116-118>
 このルイ14世とマリア=テレサの間にルイが生まれ、やがてその子フィリップ(ルイ14世の孫)を強引にスペイン王にし、そのスペイン=ブルボン家が紆余曲折の後、現在もスペインの王室として続いている。
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ノートの参照
8章4節 オ.フランスの宗教内乱と絶対王政
書籍案内

長谷川輝夫
『聖なる王権ブルボン家』
2002 講談社選書メチエ