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スペイン継承戦争

1701~14年、フランス・ルイ14世が孫をスペイン王の継承者としたことを巡って対立したイギリス・オランダ・神聖ローマ皇帝などとの戦争。またフランス・イギリス両国はアメリカ大陸においてもアン女王戦争で衝突した。一連の英仏の覇権をめぐる戦争の一つ。ユトレヒト条約、ラシュタット条約で講和し、実質的にイギリスが領土を拡張した。

スペイン王位継承問題

 スペイン・ハプスブルク家の当主カルロス2世は病弱であったが、王位継承者が無かった。フランス王ルイ14世は王妃がカルロス2世の姉であるところから、孫のアンジュー公フィリップにスペイン王位を継承させようとした。それに対して神聖ローマ皇帝であるオーストリア=ハプスブルク家のレオポルト1世も帝妃がカルロス2世の妹であるので次男をスペイン王にしようとした。他にもルイ14世の甥のオルレアン家のフィリップ、バイエルン選帝侯、サヴォイア公、ポルトガル王がそれぞれスペイン王室との血縁関係を理由に王位継承権を主張した。1700年10月、死期の近づいたカルロス2世が署名した遺言書で後継に指名されたのは、フランス王位継承権を放棄することを条件にフランスのアンジュー公フィリップであった。その1ヶ月後にカルロス2世は死去、1701年2月にフィリップはマドリードに入城してスペイン王フェリペ5世となった。決着がついたかに見えたが、問題が生じた。それはフィリップ、新国王フェリペ5世がフランス王継承権を放棄していないことだった。このままだと、将来、フランスとスペインが一体となることもありうる。また、フェリペ5世はさっそくアメリカにおける黒人奴隷貿易の独占権(アシエント)をフランスの貿易会社に与えるという便宜供与を行った。これに対してイギリス・オランダが強く反発、神聖ローマ皇帝も加えて対仏大同盟(ハーグ条約)を結成してフランスに宣戦布告、スペイン継承戦争が始まった。

戦争の経過

 同盟国側はイギリスのウィリアム3世を中心にオランダ・オーストリアが中心となった。ヨーロッパではネーデルラント・ドイツ・北イタリアが戦場となり、フランス・スペインは孤立して戦ったが、強大な陸軍と海軍を有していたので、当初は優位に戦った。しかし国内ではプロテスタントの武装蜂起があり、またオイゲン公(オーストリア軍)やマールボロ伯(イギリス軍)など同盟軍の指揮官の活躍もあり、次第に押されていった。1704年イギリスはジブラルタル占領。プロヴァンス地方やフランドルでは敗北し、さらに1709~10年には飢饉に悩まされるようになった。さらにアメリカ植民地でもイギリス・フランス間のアン女王戦争が展開され、フランスは劣勢であった。

スペイン継承戦争の講和

 戦争中、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は次男をスペイン皇帝カルロス3世として擁立、ここにスペイン王が同時に二人存在することになった。レオポルト1世は1705年に死去して長男ヨーゼフ1世が皇帝となったが、1711年に今度はヨーゼフ1世が急死した。となれば弟スペイン王カルロス3世が皇帝を兼ねることになる。これではかつてのカール5世のように、ヨーロッパで強大な権力が生まれることになり、列国のバランスがくずれる。そこで急きょ各国はフェリペ5世をスペイン王と認めることに傾き、1712年7月に休戦した。なお、カルロス3世は神聖ローマ皇帝カール6世となるが、その娘がマリア=テレジアである。
 1713年、フランスとイギリス・オランダ・プロイセン・ポルトガル・サヴォイアとの間のユトレヒト条約が成立、14年にはフランスとオーストリアの間のラシュタット条約が成立した。
 これによってフェリペ5世はスペイン王と認められ、スペイン・ブルボン朝が始まった。しかし、フランスとスペインの合同は永久に禁止された。またイギリスとのアン女王戦争でも敗れたので、北アメリカ大陸の海外領土(現在のカナダの一部)をイギリスに奪われた。表面的な勝利者はオーストリアのハプスブルク家であったが、実質的に最も大きな利益を得たのはイギリスであり、その植民地帝国の基盤を築いたと言える。
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ノートの参照
9章1節 エ.ルイ14世の時代