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長期議会

1640年、短期議会解散後に再度招集され、チャールズ1世の専制政治を攻撃、ピューリタン革命の舞台となった。解散されることなく13年続いた後、1653年にクロムウェルによって解散された。

 チャールズ1世は、スコットランドの反乱を鎮圧する軍費を得るために1640年春、それまで11年間召集されることのなかったをイギリス議会を召集した。しかし議会は国王の課税案に反対すると、わずか3週間で解散してしまった。この短期議会の後、スコットランド軍がイングランドに侵入するとチャールズは多額の賠償金支払いを条件に和睦しなければならなかった。その賠償金支払いのため財源に困ったチャールズ1世は再び議会を招集、1640年10月に総選挙実施され、同年に召集された。この議会は1653年、クロムウェルによって解散させられるまで、13年間続いたので長期議会といわれた。

ピューリタン革命の舞台

長期議会の選挙  議員に選ばれることはエリザベスのころまでは名誉であるよりは負担と考えられていたので、それまでは無競争で選ばれることが多かったが、この選挙ではかつてない激戦となった。上院は100名たらずの貴族と主教以上の僧職で選挙とは無関係。下院は選挙区259(州・自治市・大学)で定員493名。41年までに追加された定員総計547の議員の出身階層内訳はジェントリ333名、法律家74名、商工業者55名、官吏27名、廷臣22名など。選挙権は年収40シリング以上の自由土地所有者と一定の市民税を納める都市の自由民であった。
絶対王政の否定  1641年に成立し開会を迎えた議会では、つぎつぎと王権を制限する立法を成立させた。それには、独占(ブドー酒、ガラス、明ばん、製塩)の禁止、国王の召集が無くとも少なくとも三年に一回は議会を開催すること、国王の一方的な解散を阻止するため、議会自身の決定によらなければ議会を解散し得ないとしたこと、議会の同意無しに輸出入関税を課すことはできないとしたこと、反国王の取り締まりに当たっていた星室庁裁判所の廃止などを矢継ぎ早に定め、絶対王政を支えていた仕組みが否定された。
大抗議書とチャールズの愚行 1641年11月に議会の指導者ジョン=ピムが中心となり、クロムウェルらが加わった議員有志は国王の今までの執政を列挙した大抗議書の提出を提案した。しかし、国王と妥協し、改革をストップさせようとするする穏健派も多くなってきて、大抗議書は可決されたが僅差であった。この状況を見たチャールズ1世は一気に形成の回復を狙い、自ら兵を率いて議会に乗り込み、ピムら5人の議員の引き渡しを要求した。しかし、5議員はロンドン市中に隠れて難を逃れ、議長も国王の要求に応えなかったので、チャールズはやむなく兵を引き上げ、ロンドンを離れてヨークに向かった。このチャールズの愚かな行為は議会の強い反発を呼び、議会側も国王と戦うために武装を開始した。こうして議会と国王の対立は決定的となり、ピューリタン革命に突入することとなった。
内乱の始まり  1642年10月、王党派と議会派の衝突し内戦が開始された。当初は騎士を要した王党派(国王軍)が優勢であったが、議会派のクロムウェルが鉄騎隊と言われるピューリタンで組織した騎兵隊を作り上げ、彼らが信仰心に萌えて戦うようになって形勢を逆転させた。
長老派と独立派 議会内の党派では、国王に妥協的な長老派が206名で多数を占め、クロムウェルに指導された独立派は88名に過ぎず、少数派であった。しかしクロムウェルは議会軍を掌握し新型軍として統制していたので、議会に圧力をかけることが出来た。議会軍の中には革命をさらに前進させて社会的不平等の除去を目指すべきであると主張する水平派が台頭してきた。

長期議会の変質と解散

長老派の追放 1647年、チャールズ1世が議会内の対立に乗じてスコットランドと結んで挙兵し、第2次反乱が始まると議会派は再び結束してチャールズを捕らえた。この国王の処置を巡って議会は再び大きな議論となり、立憲君主政か王政廃止かの選択を迫られることになった。1648年12月、独立派のプライド大佐は兵士を率いて議会を包囲し、登院してくる議員の中の長老派の入場を拒否し逮捕した。この「プライド追放(プライド=パージ)」によって独立派だけの議会(残部議会=ランプ議会といわれた)となった。
国王の処刑、共和制へ クロムウェルは翌49年1月、国王を裁くための特別法廷を開設した。裁判の結果、国王は有罪とされた同月30日にチャールズ1世は処刑された。こうしてイギリスは共和政国家となり議会が国家の最高権威を有することとなった。権力をにぎったクロムウェルは、さらに土地私有の否定などの改革を主張する水平派を弾圧して革命の成果の固定化を図り、また王党派の残存勢力を排除するという口実でアイルランド、スコットランドを征服した。
航海法の制定 議会は有産者階級の利益保護のための立法を成立させていったが、その一つが1651年の航海法である。オランダはピューリタン革命を支援していたが、このころから毛織物工業でイギリスとの対立が鋭くなり、毛織物業者、イギリス東インド会社をはじめとする貿易商らがオランダの仲介貿易による毛織物の輸入の制限を強く望んだためであった。
長期議会の解散 長期議会(この段階では残部議会)は次第に自己保身に走り、定時選挙、解散規定、選挙区の改定などの議会改革をなおざりにするようになった。一部には宗愛などの腐敗も議員の中に生まれ、議会軍の兵士の中に不満が高まった。クロムウェル自身も革命の行き過ぎを怖れ、議会改革には熱心でなかったため、兵士の中にはクロムウェルを排除するクーデターの噂さえ出始めた。クロムウェルはやむなく立ち上がり、1653年4月20日、議場に赴き、自分の議席にたって議員を責めた後、議場のまん中を歩きながらいちいち議員を名指しで叱責した。ある議員は「のんだくれ」、ある議員は「女郎買い野郎」と口汚く罵られた。最後に「諸君は議員ではない。会期を打ち切る」と叫んで、外に待たせていた武装兵を議場に入れ、議長は議長席から引きずり下ろされ
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9章1節 イ.イギリス革命