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ポーランド継承戦争

1633~35年、フランスのルイ15世がポーランドの王位継承に干渉し、オーストリアなどとと戦った。

 1733年、ポーランド王国の国王アウグスト2世が死去、ポーランドは選挙王制であったので、ルイ15世は元ポーランド国王スタニスラス=レクザンスキを国王に選出させた(スタニスラス1世)。ルイ15世の王妃がその娘マリ=レクザンスカヤだったから、新国王はルイ15世の義父にあたる。これに対して、オーストリアとロシアが異議を唱え、前国王の子を擁立して国王とて選出させ、ここにポーランド国王が二人出現するという異常事態となった。1733年、フランスはスペイン・サルデーニャを味方にしてオーストリアに宣戦、ロレーヌ公国を占領、北イタリアでもオーストリア軍を破った。しかし、ロシア軍がポーランドに進撃すると、ルイ15世の義父スタニスラス1世はポーランドを逐われた。ロシアとの対決を恐れたフランスは講和を急ぎ、35年10月にウィーンで講和が成立した。
 その結果、ルイ15世の義父はポーランド王国の称号を放棄し、その代償としてロレーヌ公国が与えられた。ロレーヌ公国はオーストリアの神聖ローマ帝国の一部であったから、これはフランスにとって有利な講和となった。なお、その前のロレーヌ(ドイツ語ではロートリンゲン)公であったオーストリア・ハプスブルク家のマリア=テレジアの夫フランツ(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)は北イタリアのトスカーナ公に転じた。そして1766年、ロレーヌ公の死去により、ロレーヌ公国はフランスに併合されることとなった。
 スペイン=ブルボン朝はこのときフランスに味方してオーストリアと戦い、ナポリを占領するなどによって、1735年の講和によってナポリ及びシチリア王国の王位を獲得した。

Episode ポーランド女がフランス王妃となった理由

 フランス・ブルボン朝ルイ15世は15歳の1721年、スペイン国王フェリペ5世の娘、当時3歳のマリア=アンナ=ヴィクトリアと婚約した。フランス王室にとって世継ぎが生まれることが最大の関心事であったが、ルイはあまりにも幼い婚約者に関心を示さない。あわてた宰相ブルボン公は、1725年にこの婚約を解消してしまった。マリア=アンナ=ヴィクトリアは何も知らないままピレネーを越えてスペインに戻る。スペイン国王は激怒して外交関係を絶つ。その2ヶ月後、王妃決定の公式発表を聞いてフランス人は失望した。その女性はマリ=レクザンスカヤといって、元のポーランド王で今はアルザスに住んでいる貧乏貴族スタニスラフ=レクザンスキーの娘だった。彼女は22歳。教養もあり信仰も深い女性であったがけっして美人ではなかった彼女は、何といっても、すぐにでも子供を産めそうな年齢と健康体であることが決め手だった。「世継ぎを産む道具」として彼女は期待に応え、11年間に男子2人を含む10人の子供を産んだ。もう一つ、彼女の結婚は、ポーランド継承戦争の口実を与え、結果的にロレーヌ地方をフランス領にもたらした。しかし、ルイ15世との関係はまさに「世継ぎを産むための道具」でしかなく、王の寵愛はポンパドゥール夫人など宮廷の美姫たちに向かっていった。<長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』2002 講談社選書メチエ p.170,172,176>
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9章1節 エ.ルイ14世の時代
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長谷川輝夫
『聖なる王権ブルボン家』
2002 講談社選書メチエ