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オマーン

アラビア半島東端、ペルシア湾の入口。17世紀から海洋帝国を築き、19世紀前半はアフリカ東岸をも支配したが、1919年、イギリス保護国となる。

オマーン
ペルシア湾岸諸国 赤字国名は首長国諸国
 アラブ系中東の湾岸首長国の一つ。アラビア半島東端、ペルシア湾入口からアラビア海海岸一帯を領し、首都マスカットの名からマスカット=オマーンとも言われた。原音に近い発音ではウマン。オマンとも表記する。
 紀元前後から活発になったインド洋交易圏の海上交通の要地として栄え、8世紀にイスラーム化し、反ウマイヤ家を掲げるハワーリジュ派の中の穏健な一派であるイバード派の指導者であるイマームを中心とする国家を建設した。
 1507年、都マスカットをポルトガルに占領され、その支配を受けたが、17世紀にはポルトガルの衰退に乗じて反撃に移り、1650年にはポルトガルを破ってマスカットを奪回した。その後もインド洋の海上交易権をめぐってポルトガルとの争いを展開、アフリカ東海岸のザンジバル、モンバサ、モザンビークなどでポルトガル勢力を駆逐していった。

海洋帝国オマーン

 18世紀後半にはオスマン帝国支配下のエジプトの政情不安によって紅海ルートが衰え、ペルシア湾ルートの重要性が増し、その湾口に位置するオマーンは中継貿易で大きな利益を得るようになった。そのような富を背景に19世紀前半、サイイド=サイードの時にオマーンはアフリカ東岸の現在のソマリアからケニア、タンザニアにおよぶ海岸地帯を領有し、ザンジバルを新たな都として広大な海洋帝国を建設した。サイイド=サイードは黒人奴隷、クローブ(丁字)の輸出などで大きな富を築きヨーロッパ諸国とも交易、その都ザンジバルは大いに繁栄した。しかし1856年にサイイド=サイードが死ぬとオマーンとザンジバルが分離して海洋帝国の統一は崩れ、オマーンは財源であるアフリカ領を失って急速に衰退した。さらに影響力を強めたイギリスはオマーンに奴隷貿易の禁止を要求してそれを認めさせるなど、関係を強めた。
オマーンの奴隷貿易 イスラーム世界では、イスラーム教徒でない戦争捕虜などを「奴隷」にすることが多かったが、奴隷の概念は西欧社会とは大きく異なり、結婚・個人財産の所有などが認められ、所有者はこれを解放して自由民とすることが推奨された。奴隷出身の軍人が権力の頂点に立つことも多かった。アラビア半島南東部の一角に位置したオマーンの繁栄も、イスラーム世界外の非イスラーム教徒を売買する奴隷交易で繁栄し、19世紀前半まではアフリカ東岸にも支配を及ぼし海洋国家として繁栄した。
(引用)オマーン海洋帝国と大英帝国がインド洋で覇を競っていた19世紀前半は、折しも奴隷貿易禁止の気運がヨーロッパで高まっていた時期だった。大英帝国は1807年に奴隷貿易の禁止を定めるとともに、他国にもそれを強要した。真っ先にターゲットとなったのが、オマーンの奴隷交易である。結果、アフリカとインドを結ぶオマーンの交易活動は大きく制限され、その後帝国内の後継者争いとザンジバルとの分裂を経て、オマーン帝国は急速に衰退したのである。<酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.39>

イギリスの保護国化

 1869年のスエズ運河の開通と帆船から蒸気船への転換はペルシア湾ルートの古い中継貿易で支えられたオマーンに決定的な打撃を与えて国力を低下させ、イギリスとの関係を強めることとなって、1919年にイギリスの保護国となるに至った。1960年代に油田開発が始まり、1970年にようやく独立が認められ、農牧業中心の経済から産油国に転換を図っている。

独立と現状

 国土はアラビア半島の東端、日本の約80%の面積に約450万の人口を擁している。ペルシア湾の出入り口にあたるホルムズ海峡に面したところを飛地(ムサンダム特別行政区)として支配しており、軍事上も重要な位置にある。旧宗主国イギリスとの結びつきは現在も強く、湾岸戦争ではアメリカに協力したが、イランとの関係も悪くない。
 国名の英語表記は、Sultanete of Oman であり、アラブ首長国連邦クウェート、カタール、バーレーンなどと同じ部族長を首長として戴く「首長国」である。「湾岸首長国」の一つと言われることが多い。現在も首長(スルタン。国王ではない)が絶対権力を握り、議会は諮問機関にすぎない。このような前近代的な国家であるが、産油国としての経済力が首長政権を安定させている。
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ノートの参照
9章2節 ア.アジア市場の攻防
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酒井啓子
『<中東>の考え方』
2010 講談社現代新書