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アラブ首長国連邦/UAE

1971年、ペルシャ湾南岸の複数の首長国がイギリス保護国から独立し、連邦国家を構成した。アラブの産油国として経済的発展が著しい。

産油国として急速に発展

アラブ首長国連邦
ペルシア湾岸諸国 赤字国名は首長国諸国
 中東のペルシア湾の南岸に面した湾岸諸国のひとつ。英文では United Arab Emirates なので略称がUAE。emirate は emir(首長)の治める国の意味。emir はイスラーム世界のアミールのことで、王族や指揮官を意味する。首長国は王政の一種で、その地位は世襲でありクウェートやカタールなどの中東諸国に見られる。アラブ首長国連邦は首長制国家の連合体である。現在は7首長国の連合国家であるが、大統領はアブダビ、副大統領はドバイの首長が世襲的に任命されている。議会もあるが、議院の半数は各首長が選び、半数について2005年にはじめて国民が直接選挙することとなった。
 首都はアブダビ。石油輸出国として経済発展がめざましく、とくに最大の都市ドバイでは、高層ビルラッシュや、大規模な海上リゾートであるパームアイランドの建設など、世界の耳目を集めている。またアラブ連盟の構成国であり、アラブ石油輸出国機構のメンバーである。

湾岸の歴史

 ペルシア湾南岸に位置するこの地域は、7世紀にはイスラーム帝国の領域に入り、次いでオスマン帝国領となった。15世紀末にポルトガルの勢力が伸びてきて、1508年にはホルムズ島に基地を設けてペルシア湾に進出した。ペルシア湾にはついでオランダ人、さらにイギリスが進出し、ポルトガル勢力は次第に後退した。
イギリスの「インドへの道」 1622年にイギリスはサファヴィー朝イランのアッバース1世と協力してホルムズ島からポルトガルを追い出してバンダーレ=アッバースに基地を設け、さらに1778年ペルシア湾北岸のブーシェルに拠点を置き、「インドへの道」の確保に努めた。油田が発見される前の湾岸地方は、インドやペルシア向けの帆船貿易に従事するか、真珠取りと沿岸漁業を行う漁村が点在するだけだったが、イギリスはインドを統治するための中継地として重視したのだった。
海賊海岸 イギリスのインド支配ルートの遮断を狙ったナポレオンがエジプトに進出し、さらにアラビア半島のワッハーブ王国と結んでペルシア湾岸(現在のアラブ首長国連邦)の諸部族にイギリスに対する反乱をけしかけた。彼らはイギリス東インド会社の船舶を盛んに襲撃し、イギリスは彼らをアラブ海賊として恐れ、ペルシア湾岸は「海賊海岸」と言われるようになった。19世紀初頭、イギリスは海賊行為をとりしまるという名目で、アラブ諸部族の最有力部族であたカワーシム部族の本拠地ラス・アルハイマを砲撃し破壊した。<酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.37 などによる>
休戦海岸 しかし、ナポレオンが没落し、ワッハーブ王国もエジプトに滅ぼされると、イギリスは湾岸地方の部族間の構想を利用して、一部の部族長と手を結ぶようになった。1820年、ペルシャ湾南岸の諸部族の首長とイギリスの間で「海賊行為停止に関する休戦条約」を締結した。この結果、湾岸地方は「海賊海岸」から「休戦海岸」と言われるようになった。湾岸の首長国も独立前は、イギリスと休戦協定を結ん成立した国という意味で「休戦海岸」と言われた。1892年にはイギリスの保護国である「オマーン休戦土侯国」となった。
首長国連邦の成立  第二次世界大戦後の1968年、イギリスがスエズ以東からの撤退を表明すると独立の動きが活発となり、1971年にアブダビとドバイを中心とする6首長国が連合して「アラブ首長国連邦」として独立した。<牟田口義郎『石油に浮かぶ国』 1965 中公新書 p.27 などによる>

Episode オイルマネーが生んだ都市

 アラブ首長国連邦の都市ドバイは、オイルマネーによって潤い、高層ビルの乱立する巨大都市に急成長したが、1990年代までは乗り換え便のための国際空港があるだけで、さらにそれ以前は小さな寒村にすぎなかった。高さ800mを越える世界一高い(2010年現在)「ドバイの塔」など、超高層ビルが立ち並び、世界最大級のショッピングモール、雪など降ることのないアラビア半島でスキーを楽しめる東京ドームの半分の面積をもつ人工スキー場さえある。
 ドバイが急速に経済発展を遂げたのは、2001年の9.11同時多発テロの副産物だった。この事件とその後のアメリカ政権による「イスラーム世界」への攻撃で、欧米とアラブ・イスラーム諸国の関係は悪化、アラブ諸国のオイルマネーは、欧米からの締め出し、衝突のリスクを避けて、欧米諸国に対する投資を手控え、ドバイにつぎ込んだのだった。さらに2007~8年の石油価格高騰であふれかえったオイルマネーは、中東の湾岸産油国全体にバブル景気をもたらした。
 しかし、2008年のリーマン=ショックに始まった世界的経済危機はドバイを直撃、翌年には「ドバイ・ショック」が起きた。ドバイ・ショックとは、不落と思われていたドバイ政府系企業の「ドバイ・ワールド」が2009年11月に590億ドルにも上る債務の返済延期を申し出て、ドバイの信用が一気に低下、世界中で株価が下落した事件である。ドル、ユーロ安が円高をもたらし、日本経済を直撃した。震源地ドバイにも高級マンションの値段が急落するなど、影響が出た。<酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.37>
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酒井啓子
『<中東>の考え方』
2010 講談社現代新書