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ザンジバル

アフリカ東部のタンザニア海岸にある島。ムスリム商人による奴隷貿易の中心地となりスワヒリ文化が栄えた。

バンツゥ系黒人の地域であるが、8世紀以来、ムスリム商人が進出してからイスラーム化が進み、内陸部の黒人を捕らえて奴隷とする黒人奴隷貿易の拠点とされるようになった。そのため、アラビア語で奴隷を意味するザンジュから、ザンジュの国という意味でザンジバルと言われるようになった。この地域がイスラーム化し、ムスリム商人が活動するようになって、現地のガントゥ語とアラビア語などが融合してスワヒリ語が生まれ、独自のスワヒリ文化も生まれた。ザンジバルはその中心であった。

ポルトガルの進出

 15世紀末のバスコ=ダ=ガマのインド航路開拓からポルトガルの進出が始まり、1592年に北方のモンバサが占領されるとアフリカ東海岸はその支配下に入った。ザンジバル島もポルトガルによって占領された。

オマーンの支配下にはいる

 17世紀にはいるとポルトガルの衰退が始まり、代わってアラビア半島東端のオマーンが台頭し、ペルシア湾とアラビア海の中継貿易を支配して富をたくわえ、アフリカ東岸にも進出するようになった。1698年以降、ザンジバルは、モンバサやモザンビークなどと共にオマーン系の地方政権が作られた。19世紀前半にオマーンのサイイド=サイードはインド洋交易権を握ると共にザンジバルにクローブ(丁子)の農場を作り黒人奴隷を使役して富をたくわえ、1833年にはザンジバルに王宮を建設して事実上の都とした。この頃ザンジバルはアラビア半島からソマリア、ケニア、タンザニアに及ぶ海洋帝国の都として繁栄し、その交易圏は内陸のタンガニーカ湖やヴィクトリア湖地方にまで及んだ。ムスリム商人は内陸の非イスラーム教徒の黒人を奴隷としてとらえ、西アジアやインドに労働力として提供するという奴隷貿易を続けていた。

イギリスの保護領となる

 ザンジバルの港にはアメリカやイギリスの商船や使節も来航するようになったが、すでに奴隷貿易には批判的になっていたため、1873年にはイギリスとの条約で奴隷貿易は禁止とされ、ザンジバルの奴隷市場も閉鎖された。イギリスとの関係が強くなるとインド人の移住が増大し、彼らは税関業務などに従事し、次第に経済的に優位になっていった。こうして1890年、ザンジバル島はイギリスの保護領となり、大陸側の領土はイギリス・ドイツ・イタリアに分割された。<宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社現代新書 1997 p.225-241> → タンザニア連合共和国
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ノートの参照
第5章3節 ウ.アフリカのイスラーム化
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宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史』
1997 講談社現代新書