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奴隷貿易禁止

1807年、イギリスは本国とアフリカ・西インド諸島間で行われていた奴隷貿易を禁止した。

1713年、イギリスはスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約で、アシエント(黒人奴隷貿易の特権)を獲得してから、リヴァプールやブリストルの貿易商によって、アフリカと西インド諸島を結ぶ黒人奴隷貿易を独占的に行うようになった。これは、本国の綿製品・武器などの工業製品をアフリカに運び、アフリカの黒人を奴隷として購入し、西インド諸島の砂糖プランテーションの労働力として売りつけ、砂糖を本国に持ち帰って巨利を得る三角貿易の繁栄をもたらした。三角貿易の利益は大きく、また砂糖も紅茶の流行と合わせて広く国民に普及したので、黒人奴隷貿易は必要なものとして肯定するか、あるいは無関心が普通であった。ようやく1870年代になって、イギリス国教会の中の福音主義者や、非国教徒のクウェーカー教徒・メソジストなどの中に、キリスト教人道主義の立場で特に、中間航路での黒人奴隷の劣悪なこと、その貿易が非人間的な行為であることが主張されるようになった。1774年には初めて奴隷貿易の禁止案が議会に提出されtが、多数で否決された。

ウィルバーフォースの活動

 1787年、奴隷貿易廃止協会が設立され、トーリ党の下院議員ウィルバーフォースが参加し、その指導者となった。ウィルバーフォースは貴族出身であったがキリスト教福音主義の熱心な信者であり、またピットの友人という立場から、盛んに運動し、毎年のように奴隷貿易禁止法を提案したが、否認され続けた。また、リヴァプールの商人たちは地域の経済に重要な役割を果たしている奴隷貿易を廃止しないようにとの請願書を議会に提出した。特に隣国でフランス革命が勃発すると、黒人奴隷に同情を寄せる事は危険な革命思想に近いと考えられて、彼らの運動は支持を広げることができなかった。ウィルバーフォースの努力が実り、イギリス議会が奴隷貿易禁止を内容とする法律を可決したのは、ナポレオンとの戦争の最中の1807年であった。なお、その前の1804年には、西インド諸島のフランス領ハイチの独立の際には、イギリス領ジャマイカ島でも黒人暴動が起こっていた。 → 1833年の奴隷制度廃止

Episode ウィルバーフォースの奇策

 映画『アメイジング・グレイス』はウィルバーフォースが奴隷貿易禁止法を議会で制定させることに成功するまでの映画で、史実に基づいているとおもわれるが、根強い議会の禁止法反対派を出し抜くために、ウィルバーフォースたちが採った奇策の話が出てくる。彼らは初めはキリスト教的人道主義という大上段から奴隷貿易禁止を主張していたのだが、奴隷貿易や西インド諸島の砂糖プランテーションから利益を得ている議員も多く、毎年提出する法案はことごとく否決されていた。おまけに、フランス革命が勃発すると、ウィルバーフォースたちは奴隷解放に荷担する過激なジャコバン派と同類であるとみなされ、窮地に陥っていた。そこで、ジャマイカなどでの奴隷貿易の実態を見てきた仲間の弁護士が一計を案じる。それは、奴隷貿易を事実上出来なくしてしまうと言うものだった。当時、奴隷を積んでアフリカから西インド諸島に入ったイギリス・フランスの船は、そこで砂糖やタバコなどに積み荷を替え、一旦アメリカの港に入って、そこからアメリカ国旗を掲げてヨーロッパに向かっていた。中立国アメリカの船に偽装することで敵国船や私掠船(政府から敵国船を略奪することを認められた海賊船)から逃れようとしていたのだ。そこでウィルバーフォースたちは、アメリカ船の国旗を掲げる船は一切保護せず、イギリスに入るものは拿捕するという法案を提出した。これが可決されれば、イギリスの奴隷貿易商は拿捕を恐れて船を出さなくなり、それによって奴隷貿易は8割がた減少するだろうと、彼らは考えた。こうして正面から奴隷貿易禁止を訴えるのではなく、奴隷貿易そのものを妨害しようとしたのだった。しかも自分たちの提案だと言うことを隠すために愛国派の議員に提案させ、さらにウィルバーフォースは議員の多くをエプソム競馬場の招待券を配り、議場から抜け出させていた。反対派議員の大物がこの陰謀に気付いたときにはすでに遅く、アメリカ船を拿捕する法案は可決された。これに勢いづいたウィルバーフォースたちは、その運動の陰の理解者ピット首相の死(1806)を紀子で、1807年に奴隷貿易禁止法を可決させることに成功した。映画ではこの議場でのかけひきが丁寧に描かれていて、当時のイギリス議会の雰囲気を理解する上でも参考になる。
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ノートの参照
第12章1節 ウ.七月革命とイギリスの諸改革
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マイケル・アプテッド監督
『アメイジング・グレイス』
2006 イギリス