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クライヴ

イギリス東インド会社軍の司令官。プラッシーの戦いで勝利する。しかし帰国後不正の疑いをかけられ自殺した。

 クライブ Robert Clive 1725-74 は、イギリス東インド会社の書記としてマドラスで役人生活を送っていたが、1750年代に軍隊に入り、フランス軍との戦闘で500人の兵力を率いる大尉として敵陣に突入して軍港をあげ、東インド会社軍の司令官となった。
 1757年、プラッシーの戦いでフランスの支援を受けたベンガル太守軍を破り、フランスの進出を抑え、イギリスのインド支配の基礎を築いた。1764年にはブクサールの戦いでベンガル太守・アワド太守・ムガル皇帝の連合軍を破り、翌1765年にはベンガル知事としてムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサの地域の徴税権(ディーワーニー)を認められた。これによって東インド会社は単なる貿易会社ではなく、インドを直接支配する植民地支配機関へと変質する。クライヴ自身も多くの富を築き、インド植民地で財をなし、帰国後は男爵に叙せられた。

Episode クライヴの権謀術数と悲劇的な死

 ロバート=クライヴは18歳で東インド会社に雇われた事務官であった。しかし、1751年、第2次カーナティック戦争戦争でイギリス軍が不利な情勢になったとき、志願して500の兵を率いる少尉に任官し、めざましい戦果を挙げた。そしてプラッシーの戦いでは巧みな戦術と権謀術数でベンガル太守軍を破り、一躍英雄となった。この戦争ではクライヴは太守軍の軍司令官ミール=ジャーファルを買収し、戦闘で主力部隊が動かないという約束を取り付けていた。それを知らぬ太守は命令を出しても動かない我が軍に絶望し、逃亡したが途中クライヴ軍に捕らえられて処刑された。クライヴは新しい太守に買収したミール=ジャーファルを就任させ、イギリスの傀儡にすることに成功した。クライヴは本国に帰ると英雄として迎えられ、男爵となった。ついでベンガル総督に任命され莫大な資財を蓄えることができた。1767年、病気のため職を辞してイギリスに帰ったが、帰国後はインドでの強引な振る舞いと巨額の資財を蓄えたことに非難がわき起こり、議会に喚問されることとなった。その結果無罪にはなったが財産は没収され、1774年、クライヴは世間の冷たい目と病苦のために、ナイフで自らの喉を切って生を断った。<河出書房新社版『世界の歴史』19 近藤治執筆分などによる>
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9章2節 ア.アジア市場の攻防