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インドの歴史(植民地化まで)

インド=南アジア世界の概念。その構成地域。

 世界史で「インドの歴史」といった場合は、現在の国家である「インド」だけでなく、その周辺のパキスタン、バングラデシュ、さらにネパールやスリランカ、および時期によってはアフガニスタンビルマなども含む「南アジアの歴史」を指している。
 (1)インダス文明 (2)インド社会とインド文明 (3) マウリヤ朝・クシャーナ朝 (4) グプタ朝・インド古典文化 (5) インドのイスラーム化・ムガル帝国 (6)ヨーロッパ勢力の進出 (7)イギリスのインド植民地支配
 → イギリスのインド植民地支配(19世紀後半) インドの民族運動 インドの反英闘争(20世紀) インド・インド共和国(現代) パキスタン

南アジア世界の諸地域

 ヒマラヤ山脈の南に広がるインド亜大陸は、ヨーロッパよりも広い面積を持ち、多くの民族と言語が存在するが、「南アジア文明圏」としてのまとまりを有している。地域的な違いとしては、西側のインダス川流域上流はパンジャーブ地方(さらにその上流がカシミール地方)と下流のシンド地方に分けられ、東側のガンジス川は中流をヒンドスタン地方、下流をベンガル地方という。さらに支流ブラマプトラ川流域はアッサム地方という。亜大陸の中央のデカン高原の真ん中でインドを南北に分けて考える必要があり、「北インド」はほぼアーリヤ人の社会、「南インド」はドラヴィダ人の社会と考えてよく、インド史をまとめる場合も、北と南の違いに十分留意しておく必要がある。 → インドの言語

(1)インダス文明

前2500年頃~前1500年頃、インド北西部のインダス川流域に都市文明が形成された。

 紀元前2500年頃から前1500年頃、インダス川流域にはモンスーンを利用した米やアワ、麦の栽培などのドラヴィダ人の農耕社会を基盤としてインダス文明が形成された。モエンジョ=ダーロハラッパーには、焼き煉瓦を積み上げた建物や道路からなる都市遺跡が残されている。ただし、インダス川流域は現在はほとんどがパキスタン領に属する。
 インダス文明の特徴は、整然とした都市計画と沐浴場などの公共施設を持つ都市文明であったことである。また、彩文土器とともに青銅器を使用する、青銅器文化の段階に入っていた。印章にはインダス文字が認められるが、解読には至っていない。

(2)インド社会とインド文明の形成

前1500年頃、北西部からインド=ヨーロッパ語族のアーリア人が侵入、鉄器文明をもたらすと共に先住民を征服し、さらにガンジス川流域にひろがる過程でカースト制社会を形成した。前6世紀ごろガンジス流域に都市国家が成立、その中から仏教などの新しい宗教が生まれ、それはアレクサンドロス大王のインド遠征を機に生まれた統一国家マウリヤ朝の国家理念とされていく。

アーリヤ人の侵入

 前1500年頃に西北から移動したアーリヤ人がこの地を征服しながら先住民と交わり、さらに前1000年以降にはガンジス川流域に広がった。アーリヤ人は鉄器を使用しながらを飼育する牧畜を行い、自然を崇拝する讃歌リグ=ヴェーダに代表されるヴェーダを作り上げていたので、この前1500年から前500年ごろまでの時期をヴェーダ時代といい、前1000年ごろで前期と後期に分けている。

カースト制の形勢

 アーリヤ人がガンジス川の農耕地帯を征服していく過程で、いわゆるカースト制度がうまれと考えられている。アーリヤ人の社会では自然崇拝が行われその司祭者であるバラモンが最上位に置かれ、武人階級であるクシャトリヤとともに支配階級となり、その下にヴァイシャ(本来は農耕牧畜民。次第に商人層を指すようになる)とシュードラ(始めは隷属民の意味であったが次第に納高木などの生産者を指すようになる)という四つのヴァルナからなる身分制度が出来上がった。さらに後には四つの種姓の枠の外におかれる不可触民(パーリヤ)といわれる差別される人びともでてきた。
 時代がすぎるにつれ、それぞれのヴァルナを基本に、世襲的な職業による多くのジャーティが生まれ、異なるジャーティの者は通婚ができず、細かな上下関係ができあがった。このような社会を、後にインドに来たポルトガル人がカースト制度と呼び、西洋にも知られるようになった。後にはインドの近代化を妨げる要素とも考えられるようになったが、イギリスはむしろカースト間の対立を分割統治に利用した。

都市国家の形成と新宗教

 前6世紀ごろ、ガンジス川中流域にコーサラ国、下流域にマガダ国などの都市国家が生まれ、その中でカースト制度に批判的な新しい宗教が起こった。ガウタマ=シッダールタは、煩悩に囚われずに解脱への道を説いてその教えは仏教といわれ、ヴァルダマーナは厳しく殺生を禁止してジャイナ教を開いた。

(3)マウリヤ朝・クシャーナ朝

前4世紀末、アレクサンドロス大王のインダス川流域への進出に伴い、インドでも統一国家形成が始まり、最初の統一王朝としてマウリヤ朝が成立。この王朝で仏教は国家理念として保護され、隆盛期を迎える。マウリヤ朝滅亡後、インドは前2世紀~後3世紀ごろまで分裂の時代が続き、イラン系民族の侵攻が始まる。1世紀ごろインド北西に成立したクシャーナ朝では仏教は保護されると共に大乗仏教に変質する。

マウリヤ朝の統一

 西方からインダス川流域まで到達したアレクサンドロス大王のインド侵入に刺激されて、北インドの都市国家に統一の状況が生まれ、前4世紀末にチャンドラグプタがマガダ国のナンダ朝を倒してマウリヤ朝を建て、北西インドに進出し、はじめてインドを統一、都をパータリプトラにおいた。
・アショーカ王の時代 前3世紀のマウリヤ朝第3代のアショーカ王は仏教を篤く信仰し、仏法(ダルマ)による政治を志し、仏典結集などの事業を行った。それによって仏教はインド社会に広く受け入れられた。現在でも各地にこの時つくられた石柱碑ストゥーパが残されている。

インドの分裂期

 アショーカ王の没後はマウリヤ朝は急速に衰え、その後インドは前2世紀~紀元後3世紀ごろまで、小国が興亡するという長い分裂の時期となった。北西インドにはギリシア系やスキタイ系、イラン系の国々が興亡した。まずギリシア系のバクトリアが北西インドに進出し、その王メナンドロスのころ一時栄え、インドにヘレニズムを及ぼした。次いでスキタイ系のサカ族が北インドを支配した後、後1世紀頃バクトリアから起こったクシャーナ朝がインドに進出してきた。ただし、その支配は南インドに及ぶことはなかったのでインド全土を統一したとは言えない。南インドにはサータヴァーハナ朝がインド洋交易で栄えていた。

クシャーナ朝と大乗仏教

 紀元後1世紀に、中央アジアの東西交易路を抑えたイラン系のクシャーン人が力を付け、北西インドにその支配を及ぼしてクシャーナ朝が成立した。そのカニシカ王も仏教はあつく保護したが、この時期の仏教はすでに草創期の仏教と大きく変わり、いわゆる大乗仏教が主流となっていた。これは出家者が自己の救済にとどまらず、広く大衆を救済しようという菩薩信仰によるもので、ナーガールジュナ(竜樹)によってその理論が大成された。それに対して従来の部派仏教のなかで権威のあった上座部仏教小乗仏教と言われるようになった。大乗仏教はパミールを越えて西域から中国、さらに朝鮮や日本に広がり、北伝仏教とも言われる。それに対して小乗仏教は、スリランカから東南アジアに広がっていった。
・ガンダーラ様式 クシャーナ朝の都プルシャプラ近郊にはヘレニズムの影響が及んできて、ガンダーラ様式といわれる、多くの仏像彫刻が造られるている。
・ローマとの交易 クシャーナ朝は陸路でローマ帝国とも盛んに交易を行っていたが、同じ時期に南インドではサータヴァーハナ朝インド洋交易圏での海上交易で繁栄していた。サータヴァーハナ朝もローマと盛んに交易を来なったことは、大量のローマ金貨が発見されていることから裏付けられている。

(4)グプタ朝・インド古典文化

4世紀に登場したグプタ朝時代にインド古典文明は完成の域に達すると共に、ヒンドゥー教が民衆に定着する。仏教は7世紀のヴァルダナ朝の保護を最後に次第に衰える。そのころからイスラーム教のインドへの侵入が始まり、インド文明も大きく変質していく。

グプタ朝とインド古典文明の形成

 クシャーナ朝がササン朝に押されて衰退した後、4世紀にガンジス川中流域に登場したグプタ朝は、ほぼインド全域の統一的な支配を回復するとともに、インド古典文化の黄金期を実現させた。その最も重要な要素が、ヒンドゥー教の定着である。ヒンドゥー教はインド古来のバラモン教から発達した、シヴァ神ヴィシュヌ神を信仰する多神教であり、この時代は仏教やジャイナ教も依然として保護されていたが、カースト制度と結びついたヒンドゥーの神々への信仰が再び盛んになり、全盛期のチャンドラグプタ2世の宮廷でもバラモンが使っていた言葉が公用語とされていた。
・グプタ様式 グプタ朝の時代にはインド独自のグプタ様式の仏像や神像が盛んに造られ、アジャンターエローラなどの石窟寺院に多数残されている。これらの彫刻はヘレニズムの影響を脱し、インドの独自性が強くなっており、中国や日本の仏像彫刻の源流となっている。またグプタ朝時代のインドでは、宮廷でのサンスクリット語による文学、例えばカーリダーサの戯曲『シャクンタラー』が書かれ、またヒンドゥー文学の傑作と言われる二大叙事詩『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』などが生まれた。

ヴァルダナ朝

 グプタ朝は5世紀後半から西北部を遊牧民のエフタルに侵されて衰退し、かわって7世紀にヴァルダナ朝が成立した。その王ハルシャ=ヴァルダナの時代には仏教も保護され、グプタ朝時代に設けられたナーランダー僧院に唐から玄奘義浄が来て学んだことのはその時代である。ヴァルダナ朝はハルシャ王の死後、内部抗争が激しくなり、短命に終わった。このころデカン地方にはドラヴィダ系のチャールキヤ朝があって、ヴァルダナ朝の南進を阻止した。

ラージプート時代

 ヴァルダナ朝が衰えた後に、7世紀から13世紀まで北インドにはラージプートといわれる地域的諸王朝が次々と現れ、抗争するという分裂時代に陥った。ベンガル地方ではパーラ朝が最後の仏教保護を行った王朝であるが、12世紀にイスラーム勢力であるゴール朝に滅ぼされた。

南インドの諸王朝

 南インドにはアーリヤ文化とは異なるドラヴィダ人の社会が存続していたが、ヒンドゥー教の改革運動であるバクティ運動が南インドに起こり、ヒンドゥー文化も浸透してきた。また、海の道といわれるインド洋交易圏ではギリシア系商人が活動し、南インドから東南アジアの海岸部には港市国家が生まれ、香辛料絹織物陶磁器などが盛んに交易された。
 インド亜大陸の南端部には、北インドのクシャーナ朝、デカンのサータヴァーハナ朝と同じ時期にタミル人のチョーラ朝が栄えていたが、3世紀ごろ衰え、9世紀ごろに復興した。パッラヴァ朝パーンディヤ朝などがあり、またスリランカには、アーリヤ系の仏教国シンハラ王国が栄えたが、次第にドラヴィダ系のヒンドゥー教徒タミル人との抗争となっていった。

(5)インドのイスラーム化・ムガル帝国

7世紀に始まるイスラーム教勢力のインドへの浸透は、デリー=スルタン朝をへて16世紀初めに成立したムガル帝国が強大となる。17世紀後半、アウラングゼーブ帝の時、ほぼインド全土を統一。しかし同時にポルトガルを始めヨーロッパ勢力のインドへの進出が始まり、18世紀にはフランスを排除したイギリスがインド植民地化の主導権を握った。

インドのイスラーム化

 イスラームのインド侵入は、すでに8世紀にシンド地方から始まっていたが、本格化したのは、10世紀後半からのアフガニスタン方面からのガズナ朝ゴール朝の相次ぐ北インドへの侵入があった時代からである。それに対して北インドのヒンドゥー勢力であるラージプート諸侯は抵抗したが、統一した力ではなかったので次第にイスラーム勢力に押されていった。この時期に、インドの農村は自給自足的な村落共同体としての性格を強め、ジャーティ制度(いわゆるカースト制度)がその社会に浸透していった。

デリー=スルタン王朝

 北インドの中心地デリーには、1206年にアイバクが建てた奴隷王朝以来、デリー=スルタン朝と総称されるイスラーム政権が続いた。それは、ハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝と続き、この時代にインド=イスラーム文化が形成された。
 デリー=スルタン朝の中ではハルジー朝が南インドに進出したのを受け、次の トゥグルク朝もデカン高原以南に出兵し、一時はその領土をインドのほぼ全域まで拡大した。そのころ、1334年から40年にかけて、モロッコ生まれの大旅行家イブン=バットゥータが訪れ、その『三大陸周遊記』に詳しく当時のインドを伝えている。しかし、トゥグルク朝の重税政策は征服地の反発を受けて各地で反乱が起きるようになり、その部将バフマーニーは、デカン高原北部で自立してバフマン朝(バフマニー王国、1347~1527)を建てている。また、1398年にはティムールの率いる遠征軍がデリーを占領、略奪を受けた。

ヴィジャヤナガル王国

 北インドにデリー=スルタン朝が存在したころ、南インドでいくつかのヒンドゥー教国があったが、その中で最も繁栄したのがヴィジャヤナガル王国である。14~17世紀、ヴィジャヤナガルを中心として、デカンの農村地帯、西海岸のマラバール地方などを支配し、インド洋交易でもアラビア商人との香辛料取引で利益を上げていた。しかしその支配下には小藩国が多数分立しており、統制はとれていなかった。
・ポルトガル人の来航 ヴィジャヤナガル王国の支配下にあった南インドの小藩国の一つカリカットに、1498年、ポルトガルの派遣したヴァスコ=ダ=ガマ船団が現れたのだった。

ムガル帝国

 14世紀末頃から、中央アジアの西とルキスタン一帯に国を建てたティムールは、しばしばインド侵入を企てた。1526年、ティムールの子孫のバーブルパーニーパットの戦いでデリーのロディー朝を倒し、ムガル帝国を建国した。ムガルはモンゴルから来た言葉であるが、この王朝の支配層はトルコ=モンゴル系と言うことができる。バーブルと第3代アクバルの時代は南インドにはイスラームの勢力は及んでいなかった。
・アクバル帝の統治 ムガル帝国のインド支配が確立したのは16世紀後半のアクバルの時であった。アクバルは位階に応じて騎馬などの軍備を義務づけるマンサブダール制と、給与として知行地(ジャーギール)を与えるジャーギール生によって官僚・軍事制度を整備、強大な国力を組織した。
・ヒンドゥー融和策 インドに入ってきたイスラーム教は、異教であるヒンドゥー教と仏教の偶像崇拝を否定し、聖戦という考え方で攻撃したため、仏教はインドにおいて急速に衰えた。しかし、民衆にしっかりと根を下ろしていたヒンドゥー教は根強く抵抗したため、ムガル帝国のアクバルはヒンドゥー教徒との融和が図り、1564年にジズヤを廃止し、ヒンドゥー教徒を官僚に登用した。また彼自身、ディーネ=イラーヒーという新たな一神教を創設したが、定着しなかった。
・インド=イスラーム文化 安定したムガル帝国の宮廷では、インド=イスラーム文化が開花し、ミニアチュールを特徴とするムガル絵画が生まれ、シャー=ジャハーンが建造したイスラーム建築の傑作タージ=マハルが生まれた。こうしてインドではヒンドゥー教とイスラーム教が二大宗教として併存し、仏教とジャイナ教は少数派となっていった。
・アウラングゼーブ帝 ムガル帝国の全盛期の17世紀後半のアウラングゼーブは強大な力で南インドを征服し、全インドを支配するようになったが、その一方でイスラームに深く帰依し、ジズヤを復活させてヒンドゥー教徒との融和策を放棄してしまった。それがムガル帝国の衰退の一因ともなったと考えられている。デカン高原のヒンドゥー勢力はマラーター王国を中心にマラーター同盟を結成してムガル帝国に反抗し、またヒンドゥー教とイスラーム信仰を融合させたシク教も一つの政治勢力として成長し、シク王国を形成した。

ヒンドゥー教の改革運動

 ムガル帝国の元でイスラーム教徒ヒンドゥー教の融合が図られたり、アクバル帝の新宗教創出が行われた背景には、ヒンドゥー教の改革運動であるバクティ運動とイスラーム教の民衆化であるスーフィズム(神秘主義)があった。特にバクティ運動は6~7世紀の南インドに始まり、ヒンドゥー教の強い信仰心で神に帰依することをめざす運動で、スーフィズムの影響を受け、12世紀の初めに北インドにも広がった。次第に、全インドの民衆に浸透していった。16世紀初めに北インドに現れたカビールはヒンドゥー教とイスラーム教の融和を説き、その教えはカースト否定と結びつき、ナーナクに影響を与え、ナーナクはシク教を創出した。このようにムガル帝国時代のインド社会の底流では宗教思想の大きな変化が生じ、カースト制の強固な社会に揺らぎが生じ始めていた。

(6)ヨーロッパ勢力の進出

インドへのヨーロッパ諸国の進出は15世紀末のポルトガルに始まり、次いでオランダが続いた。17世紀後半、ムガル帝国の衰退に乗じてイギリス・フランスの進出が活発となり、この両国の植民地抗争が約1世紀続いた。1757年のプラッシーの戦いでイギリスが勝ち、以後イギリス東インド会社を通じた植民地支配が拡大、強化されていく。

16~18世紀 インドへのヨーロッパ諸国の進出
インドでの英仏抗争

ポルトガルのインド進出

 ヨーロッパ勢力のインドへの進出は、すでにムガル帝国の成立以前の16世紀初頭から始まっていた。大航海時代時代の先鞭を付けたポルトガルは、1489年にヴァスコ=ダ=ガマがはじめてアフリカ南端を迂回する東廻りでインド西岸のカリカットに到達してインド航路の開拓に成功し、次いでカブラルが武力でゴアに貿易拠点を築き、香辛料などの貿易品の利益を独占していた。
 続いてイギリスは東南アジアの香辛料貿易の主導権をオランダと争い、1623年のアンボイナ事件で敗れてから、インド経営に本格的に乗り出し、フランス東インド会社がそれに続いた。

イギリス・フランスの抗争

 17世紀後半のアウラングゼーブ帝の時代には、イギリスフランスがインドとの交易の利権をめぐって激しく争った。イギリスはチェンナイ(マドラス)・ムンバイ(ボンベイ)・コルカタ(カルカッタ)に、フランスはポンディシェリシャンデルナゴルにそれぞれ東インド会社の拠点を設けて交易の利益をあげようとし、さらに利益の独占を図って激しく抗争するようになる。インドにおける両者の抗争は、18世紀の中頃、激しい英仏植民地戦争を展開し、カーナティック戦争、次いで1757年のプラッシーの戦いでイギリスの優位が確定して終結に向かう。その後、イギリス東インド会社は、インド植民地統治機関として機能していく。

(7)イギリスのインド植民地支配

1757年のプラッシーの戦いでイギリスはフランスとのインド支配を巡る抗争に勝利し、植民地化を積極化させる。おりから産業革命が展開され、イギリスのインド支配はその製品の市場・原料の供給地という資本主義原理に従う形に変質し、そのためインドの綿織物産業は破壊され、本国向けの綿花・茶、さらに中国向けのアヘンなどの第一次産業に絞られることとなった。また税の徴収を通じてイギリスはインドの富を徹底して収奪するしくみを作り上げた。その体制は1857年のインド大反乱の鎮圧によって完成した。

イギリスの産業革命とインド

 その時期のイギリスはまさに産業革命を開始、展開していた時代であった。イギリスは当初はインドから綿製品を輸入していたが、国内で綿工業が盛んになると逆に綿製品を輸出し、原料として綿花を輸入するようになった。このためインドの家内工業が打撃を受け、輸出用の綿花などの生産に依存する社会となった。 → イギリス産業革命とインド
 さらに東インド会社は、ザミンダーリー制という形でベンガル地方の農村から税を取る権利を獲得し、さらにライヤットワーリー制で農民から直接徴税してインド農村の富を収奪していった。
インドの反英闘争 このような植民地支配に反発して1857年にインド大反乱(シパーヒーの反乱、セポイの乱)が起きたが、東インド会社軍はそれを鎮圧し、ムガル皇帝を退位させたため、ムガル帝国の滅亡は確定した。
インド帝国の成立 さらにイギリスは、本国において自由貿易の要求が強まったためイギリス東インド会社を解散し、かわって1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国という形にして、インドを直接支配下に置くこととした。こうしてインドは大英帝国と言われたイギリスの繁栄を支える植民地となったのである。
イギリスの分割統治 イギリスは直接統治地域以外には各地の土豪を藩王とする藩王国を認め、間接統治した。イギリスは内陸の綿花などの産物を積み出すためにインドの鉄道を勧め、また英語を強制するなど、植民地支配を進めたがその特徴は、藩王国に対してだけでなく、カーストの違いやヒンドゥー教とイスラーム教の対立を利用して、分割統治を行った。
 → イギリスのインド植民地支配(19世紀後半) インドの民族運動 インドの反英闘争(20世紀) インド(現代)・インド共和国
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ノートの参照
2章1節 エ.都市国家の成長と新しい宗教の展開
4章3節 ア.イスラーム勢力の進出とインド
7章4節 ア.ムガル帝国の成立
第13章2節 ア.西欧勢力の進出とインドの植民地化
書籍案内

中村平治
『インド史への招待』
歴史文化ライブラリー
1997 吉川弘文館