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ハドソン

16世紀末~17世紀初め、北米大陸の探検を行ったイギリス人。ハドソン湾の地名にその名を残す。

 北アメリカ大陸のハドソン川、ハドソン海峡、ハドソン湾地方にその名を残す探検家。イギリスのカナダ経営に大きな役割を果たしたが、北回りで太平洋に出るルートを探検中に遭難した。
(引用)イギリスは十七世紀まで、毛皮にもまして北極海経由で中国へ到達するルート、いわゆる”北西航路(ノースウェスト・パシジ)”の発見にこだわり続けた。その発見に生涯をかけた一人が、ヘンリー・ハドソンである。彼の名前は、むしろニューヨークとのつながりで有名かもしれない。オランダ東インド会社に雇われてアメリカ東海岸を探検した彼は、1609年にマンハッタン島に流れこむ川をさかのぼり、それがハドソン川と名づけられた。26年にオランダが、マンハッタン島を24ドル分の装身具で先住民から”購入”してニューアムステルダムを開く、これがニューヨークの前身となった・・・・。ハドソン川の流域も最初は重要な毛皮産地だったが、ハドソン自身の目的は、毛皮より北西航路の発見にあった。1610年に彼は英国王ジェイムズ1世の援助で、50トンの帆船ディスカヴァリー号を指揮して北西航路をめざしすが、これが悲劇の幕開けだった。ヌーヴェル・フランスよりはるか北に針路をとった彼は、後に彼の名がつけらるるハドソン海峡を抜ける。北米大陸を北からスプーンでえぐり取ったようなハドソン湾に達した一行は、これで大陸の北端をまわりきったと信じ、あとは南下して太平洋に達するだけだと歓喜した。だが海峡から1000キロ南下したハドソン湾南端のジェイムズ湾で、彼らは完全な袋小路にぶつかる。すでに九月に入って冬将軍が近づいており、年内の帰国は、もはや不可能だった。一行はやむなくジェイムズ湾の越冬に入る。想像を絶する寒さのなかで、全員が壊血病による関節痛、内出血、歯の脱落に苦しんだ。・・・ついに越冬にいらだって、一日でも早く帰国したがっていた乗組員は6月17日に反乱を起こし、ハドソンと彼の幼い息子・・・合計九人を救命ボートに移して置き去りにしてしまう。・・・本国にたどり着いた反乱者は、殺人罪で起訴されたが、証拠不十分で釈放された。偉大な探検家を飲み込んだハドソン湾はその後、半世紀の間忘れ去られてしまう。<木村和男『カヌーとビーヴァーの帝国 カナダの毛皮交易』 2002 山川出版社 p.37-40>
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ノートの参照
9章2節 イ.アメリカにおける殖民地争奪
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木村和男
『カヌーとビーヴァーの帝国 カナダの毛皮交易』
2002 山川出版社