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オランダ(1)

現在のヨーロッパの北西部、北海に面したオランダは、16世紀に海外との公益で急速に発展し、鎖国時代の日本ともヨーロッパのなかで唯一交渉をもった重要な国である。

 日本ではネーデルラント(オランダ語 Nederlanden 英語 Netherlands 「低地」という意味)のことを「オランダ」(Holland)という。オランダは正しくは「ホラント」、ネーデルラントの中心にある州の名前である。日本に最初に来たヨーロッパ人であるポルトガル人が、ネーデルラント連邦共和国をオランダと呼んでいたのが日本で定着し、現在に及んでいる。複雑な変遷と異なった言い方が混在するので注意を要する。概略をまとめると次のようになる。(16世紀以前はネーデルラントの項を参照)
 (2)19世紀のオランダ  (3)第二次世界大戦とオランダ (4)戦後のオランダ ヨーロッパ統合の中心に

スペインからの独立

 1568年~1648年。中世末期から毛織物業などの産業を発展させ、16世紀からはカルヴァン派が多くなった。それに対してこの地を領有したスペインがカトリックを強制したことに反発し、1568年から反乱を開始、それは北部7州のスペインのからのオランダ独立戦争に発展した。戦争は1581年の独立宣言後、1609年にスペインとの講和が成立して実質的な独立を獲得した。その後、1618年の三十年戦争に伴って再び戦闘が行われるようになり、その終結に伴う1648年のウェストファリア条約で国際的に独立承認された。独立戦争の開始から独立承認まで80年間かかったので、八十年戦争ともいう。

Episode オランダの地名

 アムステルダムという地名は、アムルテル川の堤防(ダム)のうえにつくられた町、と言う意味。13世紀にギスプレスト2世という人が、アムステル川の河口の漁村に築城し、堤防を築いて都市を建設したのが起こりだという。なお、同じオランダのロッテルダムも、ロッテ川のダムのうえ、と言う意味。ユトレヒトという地名は、下(ユト)と渡船場(トレヒト)が一つになったもので「渡船場の川下」の意味。いずれも、堤防や運河が発達した低湿地帯らしい地名である。<牧英夫『世界地名ルーツ辞典』p.47> → オランダの干拓

ネーデルラント連邦共和国

 1581~1795年。ネーデルラント連邦共和国は1581年には独立を宣言し、独立戦争を指導したオラニエ公ウィレムオランダ総督となった。それを支援するイギリスが1588年にスペインの無敵艦隊を破ったこともあって、1609年には講和が成立し、実質的な独立を達成した。
旧オランダ国旗 オランダ国旗(1581~1795)
オランダの旧三色旗 右の三色旗は、オランダ独立戦争の時掲げられた三色旗。オレンジ色はオラニエ家を示している。しかし、当時オレンジ染料は褪色しやすかったことと海上で識別しにくかったことから、1795年に現在のオランダ国旗のような赤色に変更された。しかし、オレンジを用いた三色旗はオラニエ公ウィレムが暗殺されてからは「プリンスの旗」として1795年まで併用された。また、オランダ植民地であったニューヨーク州旗や南アフリカ連邦国旗にも使われた。<辻原康夫『国旗の世界史』河出書房新社 p.43>
・17世紀前半 この独立戦争を行う一方で、オランダは積極的な海外進出に乗り出した。1602年にはオランダ東インド会社を設立して、アフリカ・東南アジア・台湾などを獲得して世界経済の中でも先進的な地位を占めることとなった。特にジャワ島を中心とした現在のインドネシアはオランダにとって最も重要なオランダ領東インドを形成していくこととなる。こうして首都アムステルダムは世界金融の中心地として栄え、近代世界システムの中核となった。さらに1621年には西インド会社を設立して新大陸にも進出した。1623年にはモルッカではアンボイナ事件でイギリスと衝突して、その勢力を排除することに成功して東南アジアでの独占的な立場を獲得した。
 17世紀中葉、ヨーロッパ諸国が三十年戦争で疲弊している間に、オランダは海洋帝国として発展し、1648年に国際的にもその存在が承認されたのである。また17世紀初頭から日本とオランダの関係が成立し、東インド会社を通じて日本の鎖国中もヨーロッパのなかで唯一国のみ、関係を継続した。
・17世紀後半 このオランダの海外発展は、ポルトガル・スペインの旧勢力を駆逐しながら進められたが、その結果、17世紀後半にはイギリスとの確執を生むこととなった。イギリスはピューリタン革命が勃発し、クロムウェルが権力を握ると、オランダの進出に脅威を感じていた貿易商の要請を受けて航海法を制定、オランダの締め出しをはかった。そのためにイギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)(1652~74年)となって、オランダはイギリスと激しく海上の覇権を争うことになった。またオランダは並行してフランスのルイ14世の侵略を受けてたびたび苦戦に陥ったため、イギリスとの抗争を切り上げ、ウィレム3世はイギリスと結んで独立と領土の維持をはかった。イギリスに名誉革命が起きると、ウィレム3世ははプロテスタントの中心人物としてイギリス国王を兼ね1689年にウィリアム3世となって両国の君主となった。その死後、両国は分離し、18世紀にはいるとイギリスは植民地帝国として発展したが、オランダは内部対立から総督が置かれない時期もあり、次第に衰退に向かい、海外領土を減少させ、オランダ領東インドのみとなる。

オランダ(2) 19世紀のオランダ

フランス革命・ナポレオン時代にフランスの支配を受け、ウィーン議定書で独立を回復し王国となる。ベルギーを併合したが、その独立運動がはげしくなり、1830年に分離独立。オランダ領東インドでは強制栽培制度を展開した。

バタヴィア共和国

 1795~1806年。1789年にフランス革命が勃発、91年のルイ16世の処刑を機に周辺諸国の干渉が強まる中、フランス国民公会は1793年にイギリスとオランダに宣戦布告し、オーストリア領南ネーデルラントに侵攻した後、1795年にオランダの全土を制圧した。オランダ国内の愛国派(共和政派)はフランス軍と結んで、オラニエ家の全州総督支持派と戦い、総督ウィレム5世はイギリスに亡命し、ネーデルラント連邦共和国は終わった。フランス軍と結んだ共和派は、バタヴィア共和国を樹立した。バタヴィアとはローマ時代にこの地にいたゲルマン人部族で勇猛を以て知られたバタヴィー族に由来する。この間、1799年にはオランダ東インド会社を解散した。

オランダ王国とフランスの支配

:1806~1810年。フランスで皇帝となったナポレオンは、バタヴィア共和国を倒し、弟のルイを国王につけてオランダ王国とした。ナポレオンの大陸支配の一環であった。しかし国王ルイはオランダ人に対して妥協的であったため、ナポレオンは1810年には国王を廃し、フランス帝国の直轄領とした。この間、1808年にはイギリス船が長崎に入港し、オランダ商館を襲うというフェートン号事件が起こっている。また、オランダが消滅した1810~15年の間は、フランスの支配は東インドまでは及ばず、バタヴィアなどオランダ植民地はイギリスに占領された。また日本の長崎へのオランダ船の来航も一時、途絶えた。 → 日本とオランダ

オランダ立憲王国

:1815~1830年。オランダ連合王国、ネーデルラント王国とも言う。ナポレオン没落後、ウィーン会議で締結されたウィーン議定書で、フランスに併合されていたオランダはオラニエ家のウィレム1世を国王とする立憲王国として復活した。またこのとき、フランスに隣接するベルギーをフランスの影響から分離させるため、オランダに併合された。そのため、この国を連合王国ともいう。こうしてオランダは、オラニエ家が王位を世襲する王国となり、王位は現在まで継承されている。
 オランダをベルギーも含めて独立させたのはイギリスの意図があった。それはフランスが再び強大になったときにイギリスとの間の緩衝国家とすることであった。イギリスは、オランダをフランスから独立させる際に、遠く離れた東南アジアで1811年に占領していたジャワ島とその周辺をオランダに返還した。

ベルギーの分離独立

 かつては同じくスペインのハプスブルク家領であったネーデルラント南部のベルギーであるが、オランダとは多くの対立点があった。
宗教上の対立 オランダはプロテスタント(カルヴァン派)であったが、ベルギーはカトリックが優勢であった。
言語の違い オランダ語が公用語とされたが、ベルギーは北部のオランダ語と南部のフランス語系のワロン語の地域に分かれていた(この違いは現在のベルギーでも大きな問題となっている)。
政治上の不利 人口ではベルギーが多いのに、議会の議席は同数とされた。
 これらのことからベルギー側に独立の気運が高まり、1830年のフランスの七月革命に刺激されて蜂起し、同年にベルギーの独立を宣言して分離した。その後、この国はベルギー王国として承認され、連合王国は解消された。新生ベルギーはイギリス、フランス、オランダという強国に挟まれていたため、永世中立を宣言し、立憲君主制という穏健な体制を採らざるを得なかった。

オランダ王国

 1830年のベルギーの分離によって連合王国が解消されてからの国号をオランダ王国という。正式な英語表記は、Kingdom of the Netherlands 現在のオランダ王国である。

オランダ領東インドの支配

このころ、オランダ領東インドでは、激しい反植民地闘争であるジャワ戦争パドリ戦争が続いていた。その戦費に加えて生産力の高いベルギーが分離したためオランダ経済は厳しい状況に追い込まれた。そこで1830年から採用されたのがジャワ島における強制栽培制度であった。これはジャワ島に対してコーヒーなどの商品作物の栽培を強制してその利益を本国が得るというもので、現地の農民に対する収奪が激しくなった。

産業革命期

 1848年のフランスやドイツの革命運動に刺激されて、王政に対する反発が強まっって責任内閣制を確立させたが、立憲王政が倒れることはなかった。なお、1867年には同君連合の関係にあったルクセンブルク大公国が独立した。1860~70年代に産業革命を達成し、工業化と資本主義化を進め、海外植民地としてオランダ領東インドを支配し、その独立運動を厳しく抑圧し続けた。

オランダ(3) 第二次世界大戦とオランダ

20世紀の二度の世界大戦では中立を守ったが、1940年5月にドイツ軍が侵攻し、占領支配され、45年に独立を回復。オランダ領東インドは日本軍に占領され、それを機会に独立運動が激化した。

ナチス=ドイツの侵攻

 フランスとドイツという二大強国にはさまれているため、帝国主義時代には厳しい状況に置かれた。第一次世界大戦では中立を守り直接的な被害を免れたが、第二次世界大戦でも国王(ウィルヘルミナ女王)が厳正中立を守ることを宣言にもかかわらず、1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵攻、国王と政府はロンドンに亡命し国民に抵抗を呼びかけた。国内はドイツと親ナチス勢力(オランダ人ファシスト)によって支配された。この間、ドイツに対する抵抗運動やユダヤ人に多くの犠牲者が出た。ドイツは占領下のオランダ人を強制労働に動員した。ユダヤ人は占領期の3年間で約10万人6千人が強制収容所に送られ、殺害された。この戦争でオランダはユダヤ人もふくめて20万人以上の犠牲を出し、ドイツ軍によって堤防が破壊されたため、オランダの干拓地の37万5千ヘクタールが水没した。

Episode 老女王のレジスタンス

 迫り来るナチス=ドイツの脅威に対し、オランダのウィルヘルミナ女王(在位1890~1948)は、1939年に演説して、厳正中立を守ることを宣言した。しかし翌40年5月10日、ドイツ軍は宣戦布告なしにオランダ、ベルギーに侵攻した。12日にドイツ軍がハーグに迫ったため、翌13日にかけて女王一家と全閣僚はイギリスに避難し、オランダ軍総司令官に全権を委ねた。14日午後、ロッテルダムが空爆されて壊滅的な打撃を受けると、軍司令官はその夜、降伏した。しかし女王はドイツ軍に抵抗する意思を表明し、ロンドンからのラジオ放送で国民に治下の抵抗運動―レジスタンス―を続けるよう訴えた。ロンドンに亡命したデ=ヘール首相はドイツとの和平に傾いたことから女王と対立して、9月には辞任した。<森田安一編『スイス・ベネルクス史』新版世界各国史14 1998 山川出版社 p.329>
 ナチ侵略に対して抵抗した女王の姿勢が国民の信頼を受け、第二次世界大戦後もオランダで君主政が続いた一因である、という指摘もある。<浜林正夫他編『世界の君主政』1990 大月書店 p.197>

日本軍のオランダ領東インド侵攻

 またアジアでは、南進策をとる日本が東南アジアに侵出、スマトラ島・ジャワ島など、豊富な石油資源を狙う姿勢を強くしてきた。1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃すると、アメリカ・イギリスとともにオランダも日本に宣戦布告し、太平洋戦争が開始された。ただし、この時本国はドイツ軍に占領され、政府もロンドンに亡命していたので、宣戦布告を判断したのはオランダ領東インドの東インド政庁であった。後に亡命政府が追認したが、オランダ政府がこの戦争で宣戦布告をしたのは唯一日本に対してだけであった。
 日本軍のインドネシア侵攻(オランダ領東インドへの侵攻)は1942年1月から始まり、オランダ東インド軍が抵抗したが次々と島嶼部を失い、スマトラ島に次いでジャワ島にも上陸を許し、ついに3月9日、オランダ東インド軍は降伏した。このとき、多くのオランダ人が捕虜収容所に送られ、犠牲になった者も多く、捕虜虐待などの行為に対する反日感情はオランダ市民の中に根強いものがあることを忘れてはならない。オランダ植民地軍が敗れたことによって民族運動も活気づいた。

「饑餓の冬」と解放

 1944年6月、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を開始、9月一二日にオランダに入ってドイツ軍を徐々に追い詰めていったが、残存するドイツ軍の抵抗力を奪うため、石炭、ガス、電気の供給を止めた。ドイツ軍も食糧供給を妨害したため、その年の冬には2万2千人が飢えのために死に、「饑餓の冬」と言われた。ついに45年5月五日、ドイツ軍は降伏し、オランダは解放された。

オランダ(4) 戦後のオランダ ヨーロッパ統合の中心に

第二次世界大戦後のオランダは、戦争の荒廃と植民地インドネシアの放棄という痛手から経済を復興させ、同時に中立から西側世界の一員へと姿勢を転換し、さらにヨーロッパ統合の中核的存在となった。

オランダ国旗 オランダ国旗(1795~)
 戦後はカトリック人民党と労働党による連立内閣が、干拓地の堤防の復興や鉄道・道路の復旧など国土の再生に取り組んだ。その際、10億ドルに上るマーシャル=プランの資金援助が大きな支えになった。しかもインドネシアの独立により、オランダは植民地依存の経済からの脱却に迫られ、新たな国内経済基盤の安定策を模索しなければならなくなった。
オランダの三色旗 現在のオランダ国旗は上部が赤だが、かつてのオランダ国旗は上部がオレンジ色だった。オレンジ色の方はオラニエ家のシンボルであったが、1795年には赤いに変更された。現在のロシア国旗は、オランダの三色旗の配色を変え、上から白、青、赤としたものである。<辻原康夫『国旗の世界史』河出書房新社 p.43>

インドネシアの独立

 1945年8月、日本軍撤退後にスカルノらの独立宣言が行われた。しかし、植民地支配を復活させたオランダはそれを認めなかったので、激しいインドネシア独立戦争が開始され、その結果、オランダは1949年にハーグ協定でいったんインドネシア連邦共和国という形で独立を承認した。これによって、17世紀以来のオランダ領東インドは終わりを告げた。
 インドネシア連邦共和国は、スカルノらが独立宣言したジャワ島とスマトラ島の一部のインドネシア共和国と、オランダの傀儡政権が残る合計16ヵ国の連合国家という形態をとり、オランダがなおも影響力を残そうとしたものであったが、翌1950年にはすべてがインドネシア共和国への合一を望み、一体化され、オランダの影響力は完全になくなった。

多極共存型社会へ

 植民地の喪失という事態に直面して生まれた新たな理念が「多極共存型社会」という考え方であり、オランダの戦後経済の復興の成功はこのそれが有効性を発揮したためと言うことができる。「多極共存型社会」とは、経営者と労働者の代表からなる社会経済協議会が政府の諮問機関として設けられ、この機関の労使協議に基づいた勧告を政府の政策に反映させるというやり方であり、それによって60年代から1973年(石油ショック)までの「オランダ経済の驚異」といわれる経済成長を遂げた。また、1959年に北部のスロフテレンで豊富な天然ガス田が発見されたことも追い風となった。

中立からの転換

 戦後のオランダのもう一面での大きな方向転換は、中立政策を放棄したことである。東西冷戦が深刻になるなかで、1948年のイギリス・フランス・ベルギー・ルクセンブルグとのブリュッセル条約、54年の西ヨーロッパ連合の結成へと明確に西ヨーロッパと協力関係を結んでいった。49年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、共産陣営との対決する軍事同盟の一員となった。

ヨーロッパ統合

 並行してヨーロッパの統合にも積極的に推進し、1948年のベネルクス関税同盟結成に始まり、51年のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体への加盟、57年のヨーロッパ原子力共同体ヨーロッパ経済共同体の結成を勧めた。その流れは、1967年のヨーロッパ共同体を経て、1992年のオランダのマーストリヒトで採択されたマーストリヒト条約によるヨーロッパ連合の発足へとつながっていく。
 1970~80年代にはヨーロッパ統合の進展により、新たなボーダーレス社会を生み出し、オランダでも従来の「多極共存型社会」は行き詰まりを見せている。政治情勢では複数の政党が選挙ごとに順位が変わり、常に連立政権という形態となっている。政治的不安定にかかわらず、高度な社会保障制度は維持されているが、多の先進国と同様、財政的には問題を抱えている。2005年には国民投票で欧州憲法への批准が否決され、肥大化したヨーロッパ連合への不信も露わになってきている。<以上、森田安一編『スイス・ベネルクス史』1998 新版世界各国史 山川出版社 などを参考にまとめた。>