印刷 | 通常画面に戻る |

ジャマイカ

キューバの南のカリブ海の島。スペイン領となったが、クロムウェルの1655年にイギリスに征服され、以後、イギリス領として続く。1962年に独立。

ジャマイカ GoogleMap

 西インド諸島の中のキューバの南にある島。1494年のコロンブスの到達以来スペイン領であったが、1655年年にクロムウェルのイギリスが征服、1670年に正式にイギリス領となった。一貫して砂糖プランテーションのモノカルチャーが続いており、1962年にジャマイカ共和国として独立、イギリス連邦の一員となっている。

スペイン人の入植

 スペイン人宣教師ラス=カサスの報告には次のような一節がある。
(引用)1509年、スペイン人たちはサン・フワン島(プエルトリコ)とジャマイカ島へ侵入したが、その二つの島はまるで実り豊かな果樹園のような所で、そこには巣に群がる蜂のように大勢の人がひしめきあって暮らしていた。・・・スペイン人たちはインディオたちを殺したり、火攻めにしたり、また彼らに獰猛な犬をけしかけたりした。更にスペイン人たちはインディオたちを鉱山での採掘やそのほか数々の労働で酷使し、圧迫し、苦しめ、結局、その哀れな罪のない人々を全員滅亡させてしまった。両島にはかつて60万人以上、いな、100万人を超える人が暮らしていたであろうが、今ではそれぞれ200人ぐらいしか生き残っていない。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.39>

クロムウェルのジャマイカ征服

 ジャマイカはコロンブスのカリブ海探検によって知られるようになり、スペイン人が入植し、砂糖などの栽培を始めていた。イギリスでピューリタン革命が起こり、クロムウェルが政権を取ると、彼は有名な「西方計画」を立案した。これは「エスパニャ(スペイン)王の、精神、政治両面にわたる、悲惨な束縛と拘束」からインディオの住民を解放し、「真の宗教(プロテスタンティズム)をひろめること」を宣言するものであると同時に、西インド全域にイギリスの利益を拡げる動機があった。計画に従い、ウィリアム=ペンらに率いられた艦隊がまずエスパニョラ島(現在のハイチとドミニカ)占領をめざしたが、疫病と大雨のために失敗し、目標をジャマイカに変更、1655年5月に占領した。現地人の抵抗は5年ほど続いたが、結局イギリス領となった。<増田義郎『略奪の海カリブ』1986 岩波新書 p.113-114>

イギリスの支配

 1655年、クロムウェルの時にイギリスに征服され、以後1958年までその植民地とされ、特に砂糖は西インド最大の産地となり、アフリカとの三角貿易で運ばれた黒人奴隷砂糖プランテーションの労働力とされた。ジャマイカの砂糖と黒人奴隷貿易はイギリスに大きな富をもたらした。
砂糖プランテーション ジャマイカも1655年にイギリス軍に占領されてからは、砂糖に目をむけ始める。1672年までには、この島にも70の製糖工場ができ、760トンの砂糖が生産されるようになった。ジャマイカのプランテーションは1670年の調査では20万エーカーの土地が714家族に分与され、一家族あたりおよそ280エーカーだった。<E.ウィリアムズ/北川稔訳『コロンブスからカストロまで』Ⅰ 岩波現代文庫 p.169>
 「西インドの庭園」と言われたジャマイカでは当初は砂糖以外にカカオやタバコなども作られていたが、砂糖生産が一旦確立されると、無限の利益が上がるとされ、プランテーションはサトウキビ栽培に特化され、他の作物は作られなくなり、モノカルチャー化していった。また砂糖プランテーションは黒人奴隷労働力を他の作物に較べて3倍必要だった。<p.183>
 1774年のジャマイカの国勢調査では、合計30万エーカーの面積に680の砂糖プランテーションがあり、そこに10万5千人の黒人と6万5千頭の家畜がいた。したがって砂糖プランテーションは平均441エーカーで奴隷151人と家畜95頭を所持したことになる。この年、ジャマイカの砂糖生産は頂点に達したが、5万トンをわずかに上まわる砂糖をイギリスへ輸出しただけであった。島内にはまだ開発する余地はあったが、プランターは農園を開拓することをせず、またイギリスが西インド諸島の他の島を獲得することに反対した。それは砂糖価格が下がることを恐れたからであった。ジャマイカにプランテーションを所有し、自分はロンドンで優雅な生活を送る「不在プランター」は“西インド諸島派”という党派を組み盛んに議会に働きかけた。また彼らは指定をジャマイカでなくイギリスで教育を受けさせたので、ジャマイカには学校は必要がないと主張し、現地に学校を設置する資金を出さなかった。<E.ウィリアムズ/北川稔訳『コロンブスからカストロまで』Ⅰ 岩波現代文庫 p.196-207「王様の名は砂糖」>

黒人奴隷集団「シマロン」の叛乱

 1655年、イギリス軍がジャマイカを占領すると、大部分の黒人奴隷は奥地に逃亡し抵抗を続けた。1657年、逃亡奴隷のリーダーのファン・デ・ボラスが恩赦と自由身分の保障を条件にイギリス軍に投降、鎮圧された。しかしシマロンと言われた逃亡奴隷集団は新たな逃亡奴隷を加えてその後も勢力を保ち、1690年に最初の大奴隷反乱を起こし、ジャマイカの民兵組織との間で本格的な戦闘状態に入った。
(引用)シマロンは、プランテーションからの新たな逃亡奴隷が加わって、人数が膨れ上がった。現地の民兵を破り、中米から来たインディオ軍をも破り、イギリスの正規軍からなる陸・海両面からの討伐軍にさえ勝利した。クドホエとその二人の弟の巧みな指導により、彼らは一時もプランターを安眠させなかった。……
 シマロンとは和平するほかに方法がなかった。講和条約は1739年3月1日に調印された。こうして永遠に自由であると宣言されたシマロンは、1500エーカーにのぼる土地を与えられ、そこに砂糖以外ならどんな作物を作ろうと自由とされた。それと引き換えに彼らは、条約締結後に逃亡してくるニグロはすべてもとの主人に返し、別に逃亡奴隷の集団ができればその鎮圧にも協力すること、外国人の侵略に対する島の防衛にも協力することを約束した。……クドホエは終身、「シマロンの司令官」の地位を保証された。……講和条約に盛り込まれた条件を見ると、まさに、ジャマイカ植民地の中にシマロンの国家を建てるに等しかったことがわかろう。<E.ウィリアムズ『前掲書』 p.311-312>

ジャマイカの海賊

 イギリス領ジャマイカの港ポート=ロイヤルは、スペインの艦隊や商船から、バッカニーアと言われて恐れれられた海賊の基地となった。最も有名なヘンリー=モーガンはキューバやパナマのスペイン領の都市を襲撃し、莫大な財宝を得ていた。彼は本国のチャールズ2世などに賄賂を送り、ナイトの位とジャマイカの裁判所判事の地位を得た。さらに1674年にはジャマイカ副総督に任命され、表向きは海賊取り締まりを強化すべきだと唱えていたが、裏ではひそかに私掠免許状を海賊に発行し、戦利品の10%を得ていた。このことが表面化して、モーガンは1683年に公職追放処分を受けた。<武光誠『世界史に消えた海賊』2004 青春出版社 p.94>

イギリスの反奴隷制運動

 フランス革命中にハイチで黒人反乱が起きると、ジャマイカでも黒人暴動が起き、白人支配者の苛酷な弾圧が行われた。しかし、イギリス国内で黒人奴隷貿易や奴隷制度に対するキリスト教人道主義の立場からの批判が強まり、1807年には奴隷貿易が禁止され、続いて奴隷制度そのものの廃止を目指す、反奴隷制運動が始まった。
 イギリス本土ではすでに黒人奴隷は見られなくなっていたのに反奴隷制運動がおこたのはなぜかと言えば、イギリス植民地である西インド諸島のジャマイカなどの砂糖プランテーションでは黒人奴隷制が行われており、その所有者(プランター)の中にはロンドンで優雅な生活をしている、と言うことを反対者が攻撃したからである。
 ジャマイカの砂糖プランテーションを経営するプランターは、反奴隷制運動に激しく反発したが、運動は衰えることなく高まり、1833年についに奴隷制度廃止が成立(その前年の32年に第1回選挙法改正で有権者が増え、新有権者に反奴隷制を訴えた結果だった)したが、それに直接影響を与えたのが、前々年の1831年に起こったジャマイカの黒人奴隷反乱だった。

1831年の黒人奴隷反乱

 ジャマイカでは黒人の間に、プランター所有者が奴隷制度廃止に反対しているため本国での決定が遅れ、解放されないことに強い苛立ちを強めていた。奴隷反乱の気運が高まるなか、1831年のクリスマスの夜、サミュエル・シャープら奴隷の首謀者たちが集まり翌日から一斉に仕事を放棄し、解放要求を突きつけようと言うことになった。しかし現実はこれを越えて進行し、奴隷の一部は銃やピストルを奪い、プランターの家に放火して反乱が始まった。白人たちは民兵組織をつくり、植民地政府は本国に軍隊派遣を要請し、32年1月1日に戒厳令を布き反乱鎮圧を本格化させ、1月末までに鎮圧した。このときの奴隷反乱にはジャマイカの全黒人奴隷31万8千人のなかの約6万人、つまり約2割が参加し、540人が死亡(白人も14人が死亡)し、344人(うち2名が女性)が裁判で死刑になった。死刑になったシャープを始め、反乱の首謀者の多くは非国教会のバプティスト教会の信徒だった。

イギリスの奴隷制度廃止

 このニュースが本国に知られた時期に、政治情勢は劇的に変化、審査法が廃止され、カトリック解放法が制定され、選挙法改正が成立し、一連の自由主義改革が続いており、その中で現実にジャマイカで奴隷反乱が起きたことにより、黒人奴隷制度への批判が一気に強まって、1833年7月31日、議会で奴隷制度廃止が決議されたのだった。
 イギリス領西インドとモーリシャスでの奴隷制廃止が施行されたのは1年後の1834年8月1日で、この結果、イギリス領西インドだけで約66万7千人の奴隷が解放された。ただし、解放を祝う行事は一切なかったといわれている。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.192-200>
 なお、ジャマイカ近辺では、ハイチでは奴隷解放は実現していたが、キューバなどのスペイン領や、アメリカ合衆国では依然として奴隷制度が続いており、ジャマイカの黒人をとりまく状況が良くなったわけではなかった。アメリカで南北戦争が起こった1865年には、西インド全域で黒人の武装蜂起が起こったが、このときも本国の派遣した軍隊によって鎮圧されているた。

独立運動

ジャマイカ共和国国旗
ジャマイカ国旗
 イギリスは1953年にようやくジャマイカの自治を認め、1958年には他の西インドのイギリス自治領とともに「西インド連邦」を結成して独立した。しかし、諸島・諸地域間の歩調が合わずに1962年に解散し、同年8月、ジャマイカとトリニダート・トバゴが分離独立した。
 ジャマイカは、現在、270万、ほとんどがイギリス統治時代にアフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫の黒人である。形式的にはイギリス女王を国家元首とする立憲君主国で、イギリス連邦の一員であるが政治的は全く独立している。一時、キューバの影響を受けて社会主義政権が成立したが、親米派の巻き返しが在り、現在も選挙ごとに政権が入れ替わる傾向がある。現在はボーキサイトとコーヒーの輸出が経済を支えている。観光も期待されているが治安が悪いため充分国を富ますところまで入っていない。
 ジャマイカは音楽ではレゲエの生まれたところとして有名。また現在のスポーツで陸上競技のウサイン=ボルトをはじめ、多くのアスリートが輩出している。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

エリック=ウィリアムズ
/川北稔訳
『コロンブスからカストロまで』カリブ海域史1942-1969 初刊 1970
岩波現代文庫 2014

増田芳郎
『掠奪の海カリブ』
1986 岩波新書

武光誠
『世界史に消えた海賊』
2004 青春出版社