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カナダ

現在は北アメリカ大陸のアメリカ合衆国の北側から北極圏にいたる大国。英仏の植民地構想を経てイギリス領となる。1867年に自治領となり、その後もイギリス連邦の一員にとどまりながら、第2次世界大戦後に実質的な独立を確立した。

カナダ史のまとめ(自治の開始前まで) (1)先住民の時代  (2)ヨーロッパ人の入植  (3)イギリスとフランスの抗争  (4)カナダ連邦の成立  (5)第二次世界大戦と戦後のカナダ

カナダ(1) 先住民の時代

先住民の時代

 4万年前の氷河期に、ベーリング海峡が地続きであったので、モンゴロイドがシベリアから北米大陸に移動し、現在のインディアンやイヌイットなどの先住民となる。彼らは氷原や森林での狩猟生活を営み多くの部族に分かれて生活していた。 → 人類の拡散

ヴァイキングの渡来

 西暦1000年頃、北ヨーロッパのヴァイキングと言われる漁業民がアイスランドを経由してニューファンドランド島に到達したが、彼らの居住地は永続しなかった。 → ヴァイキングの北アメリカへの入植

カナダ(2) ヨーロッパ人の入植

ヨーロッパ人の「カナダ」発見

 1497年、イギリス(ヘンリ7世)の派遣したイタリア人のカボットがアジアに到達する西北航路を発見を目ざしたが、その途中に現在のノヴァ=スコシア、ニューファンドランドに到達し、ヨーロッパ人として最初に北米大陸に上陸した。この海域は豊かなタラ漁場だったので、イギリスやスペイン、ポルトガル、フランスなどの漁師が殺到するようになった。しかしこの段階ではイギリスはこの地に植民地を領有しようとはしなかった。

フランスの進出

 1534年、フランスのフランソワ1世ジャック=カルティエを北米に派遣、セントローレンス川流域を探検させた。カルティエはこの地をカナダと名付け、フランスは1534年にはこの地をフランス領とすると宣言し、1603年アンリ4世の時に植民地を成立させた。ついで1608年、フランス人サミュエル=ド=シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベックを創設、ヌーヴェル=フランスとして植民地経営を開始した。さらに、ルイ13世の宰相リシュリューは1627年、ヌーベル=フランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ねた。フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易(ビーバーの毛皮が、ヨーロッパで帽子の材料とされて需要が高まっていた)を行った。フランスはさらに1642年にはモントリオールにも拠点を設ける。ルイ14世のもとでコルベールはヌーベル=フランス会社を廃止、植民地を王領(直轄領)とした。フランスは五大湖地方からミシシッピ川流域に南下して植民地を拡大、1682年にルイジアナとして領有した。

イギリスの進出

 一方、 イギリスは17世紀の初めハドソンを派遣して、北アメリカ大陸の北を通ってアジアへに抜けるルート(北西航路)を探索させたが、失敗した。その後、ハドソン湾地方が豊かな毛皮産地であることに注目し、ハドソン湾会社を設立してインディアンとの毛皮貿易を開始し、カナダ西部の内陸地方にも進出したが、次第にフランスとの競争が激しくなった。<木村和男『カヌーとビーヴァーの帝国 カナダの毛皮交易』 2002 山川出版社 p.37-40>

カナダ(3) イギリスとフランスの抗争

フランスとイギリスの抗争

 18世紀のイギリスとフランスの植民地抗争は北米大陸でも激しくなり、スペイン継承戦争(北米ではアン女王戦争)後の1713年のユトレヒト条約ではニューフアンドランドアカディアハドソン湾地方をイギリスに割譲し、フランス領はケベックを中心としたセントローレンス川流域から、五大湖地方、ミシシッピ流域のルイジアナに及ぶ地域となった。
 さらに七年戦争(1756~63年)と並行してフレンチ=インディアン戦争が起き、優位に戦ったイギリス軍がフランスの拠点ケベックを占領、1763年のパリ条約でフランスはカナダ側の大部分をを放棄することとなった。これによってイギリス領カナダ植民地が成立することとなった。

イギリス領カナダ植民地の成立

 イギリス植民地議会は1774年ケベック法を制定し、ケベックのフランス系住民(約65000人)に対し、そのカトリック信仰、フランス語の使用、フランス民法の適用を認めた。翌1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、独立に反対したロイヤリスト(王党派)がイギリス領カナダに大量に移住してきた。アメリカ合衆国の独立勢力はカナダも加わることを働きかけたが、実現せず、カナダはイギリス植民地として残ることとなった。この間、1793年には、マッケンジーがロッキー山脈を越えて大陸横断に成功し、植民地は太平洋岸にひろがった。

カナダ (4)カナダ連邦の成立

イギリス植民地カナダは1867年、イギリス領で最初に自治が認められ、カナダ連邦となる。1931年にはイギリス連邦の中で実質的に独立した。

カナダの自治の開始

 イギリス植民地としてのカナダは、南北戦争の時、イギリス議会が北アメリカ法を制定し1867年に「自治領」となった。これがイギリスの海外領土で初めて認めらた自治領である。カナダはこれによってイギリス帝国の下で自治権を有する一つの「カナダ連邦」という連邦国家となり、オタワに連邦首都が置かれた。この時は外交権はまだ付与されず、独立国家とは言えなかったが、自治が認められたこの年7月1日を現在のカナダでは独立記念日「カナダ・デー」としている。1885年 カナダ太平洋鉄道が完成、大西洋岸と太平洋岸が結ばれた。この建設では多くの中国移民が酷使された。
自治領の意味 イギリスの自治領とは、国家元首としてイギリス国王を戴き、外交・国防・通貨などは本国の統治を受けるが、その他については独自の議会と政府を有して自治を行うことができる国家形態である。イギリスは多くの植民地を所有していたが、白人が優位に立っているカナダに対してこのような自治権を最初に与えた。ついで1901年にオーストラリア連邦、1907年にニュージーランド、1910年に南アフリカ連邦を自治領とした。しかし直轄領としていたインド帝国では、自治の要求は強かったが認めなかった。

イギリス連邦の成立とカナダ

 第一次世界大戦(1914~1919年)にカナダはイギリス帝国の一員として参戦。それが認められて、戦後の1926年にイギリスはカナダに外交権を付与した。そして、1931年のウェストミンスター憲章イギリス連邦が成立するとその一員となり、イギリスと対等な主権を持ち、実質的な独立を達成した。第二次世界大戦後の1949年にニューファンドランド(1713年からイギリス領。カナダとは別個な自治領であった)がカナダ連邦に加わった。

その後のイギリスとカナダの関係

 1982年に独自の憲法を制定、イギリス連邦の一員でありながら、名実共に独立国家となっている。依然としてイギリス女王を戴く立憲君主国にとどまっているが、女王の代理であるカナダ総督も現在はカナダ人が就任しており、イギリスとの関係はまったく形式的なものになっている。イギリス系住民とフランス系住民、さらに多くの移民が共存する多民族国家としての道を歩んでいる。 → 現代のカナダ 

カナダ (5)第二次世界大戦と戦後のカナダ

第二次世界大戦にイギリス連邦の一員として参戦。戦後は西側の一員としてNATOに加わる。1982年に憲法制定し真の独立を達成した。二言語主義、多文化主義の問題も抱えている。

 第二次世界大戦でカナダはイギリス連邦の一員として直ちに参戦し、ヨーロッパ戦線に派兵、ノルマンディー作戦にも参加した。アジアではイギリス領香港の防衛に参加し、日本軍の攻撃を受け、捕虜となったものもいる。
 戦後のカナダは連合国の一員であったことから国際連合には当初から参加した。米ソ冷戦が決定的になると、カナダは北極海をはさんでソ連と対峙するという最も直接的にソ連の脅威を受ける位置にあったので、1949年に北大西洋条約機構(NATO)が結成されるとその当初から加盟し、西側軍事同盟の一員に組み込まれた。また朝鮮戦争にも軍を派遣し、アメリカ合衆国との連携を強めた。

カナダの真の独立

 カナダは1931年のウェストミンスター憲章でイギリスと対等な主権国家となり、実質的に独立していたが、形式的にはイギリス連邦の一員であり、依然としてイギリス国王を君主と仰ぎ、首相とは別に総督(イギリス国王の代理)も存在している。しかし、1952年にはカナダ人の総督が初めて任命され、また1965年にはユニオンジャックを配した国旗に代わって、現在のカエデを図案化したカナダ国旗を制定し、1980年には国歌「オー・カナダ」を選定して独自色を強め、1982年にイギリスの北アメリカ法の改正と、カナダ憲法の成立により、カナダは真の独立国家としての地位を確立した。
カナダ国旗

カナダ国旗

 カナダで最も一般的な樹木のカエデの葉(メイプルリーフ)を図案化したもの。国旗制定委員会での審議を経て、1964年12月に決定され、1965年2月15日に国旗としてはじめて掲揚された。

二言語主義と多文化主義

 カナダはイギリスとフランスの二国によって植民地とされた地域を併せて形成されたという歴史的な背景があり、その二国の文化や伝統はそれぞれ根強く残っている。イギリスは1763年のパリ条約でフランス領を併合したが、フランス語とカトリック信仰に対しては寛容で、その維持を認めたので特にフランス植民地であったケベック地方は現在でもフランス語が使われカトリック信者が多い。1965年のモントリオール万博の頃からケベック民族主義の傾向が顕著になったことをうけ、1969年には英語とフランス語の両語を対等な公用語とする事が定められた。1970年代にはケベック分離主義者のテロ活動が活発になったが、1980年と1992年の住民投票の結果では、いずれも分離独立は否決された。 → ケベック問題

先住民と移民

 人権意識が強まるにつれて、先住民族であるインディアンやイヌイットの権利も問題となり、カナダ政府は1999年に先住民の自治権を承認した。またカナダはアメリカと同じように移民を積極的に受け入れたが、1997年の香港返還に伴って、特にバンクーバー周辺では広東語系中国人移民が激増している。カナダはアメリカ合衆国のように国籍を与える条件に英語を話すことなどの条件を付けることなく、移民がそれぞれの独自の文化を維持しながら協力し合う社会の構築を目ざしており、多文化主義がとられている。

Episode アメリカ大統領につるし上げられた首相

 今、カナダの外務省はピアソン・ビルと呼ばれ、カナダ最大の国際空港はトロント・ピアソン空港と言われている。このピアソンとはカナダの首相だった人である。なぜ外務省の建物や国際空港の名前に彼の名が付けられたのだろうか。実はピアソンは首相在任中にアメリカのジョンソン大統領から襟首を掴まれ、つるし上げられながら屈しなかった首相として、国民の尊敬をいまだに集めている人物なのだ。出来事はこうだ。
 ベトナム戦争が本格化して間もない1965年4月、ピアソン首相はアメリカの大学でアメリカによる北ベトナム爆撃(北爆)を間接的に批判する演説をした。それを知ったジョンソン大統領は翌3日、キャンプ=デービットの別荘にピアソンを呼び、会食の後にテラスに連れ出し、襟首をつかみ、片手を振り上げて約1時間にわたってつるし上げるという事件がおこった。ピアソンはトンキン湾事件をアメリカの自作自演ではないかと暗に非難したために、痛いところを突かれたジョンソンが激怒したのだった。このピアソンに対し、カナダ国民は最大の賛辞を送った。カナダにはとなりの大国アメリカの言いなりにはならないという気概を持った政治家、外交官がその後も多く、イラク戦でも最後まで反対した。<孫崎享『戦後史の正体』2012 創元社 p.66>
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ノートの参照
9章2節 イ.アメリカにおける殖民地争奪
第14章1節 イ.イギリス
第15章2節 ウ.西欧諸国の停滞
第16章1節 イ.ヨーロッパの東・西分断
書籍案内

木村和男
『カヌーとビーヴァーの帝国 カナダの毛皮交易』
2002 山川出版社

細川道久
『カナダの歴史がわかる25話』
2007 明石書店