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ニューネーデルラント植民地/ニューアムステルダム

1625年、オランダが北米大陸に設けた植民地。1664年にイギリスに奪取されニューヨークとなる。

 オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、オランダ独立戦争を継続していたが、すでに事実上の独立を果たし、海洋国家としてアジアに進出していた。さらにアジアへの最短ルートを求め、ロシアの北岸の北極海を横断して大西洋に達するいわゆる北東航路を開こうとして、1609年にイギリス人ヘンリ=ハドソンに探検を命じた。ハドソンの船団はノヴァヤ・ゼムリャ付近で前進をあきらめて進路を西に変え、北大西洋を横断して北米大陸東岸に達した。このときハドソン川やマンハッタン島を発見した。これをきっかけにしてオランダのアムステルダム商人が北米大陸に進出して、インディアンと友好関係を結んだ。
 1621年にオランダは西インド会社を設立し、北アメリカ大陸東岸のハドソン川河口にニューネーデルラント植民地を建設することを許可した。北アメリカ大陸の東岸にはすでにイギリスの植民地がいくつか建設され、さらに北部にはフランスが進出、南部にはスペインがすでに植民地を有していたので、オランダはそこに割り込む形となった。

ニューアムステルダム

ニューアムステルダム

ニューアムステルダム Our Empire's Story より

 オランダ西インド会社は、1625年に現地のインディアンからマンハッタン島を安い価格(24ドル相当という)の品物と交換してその地をニューネーデルラントとし、中心都市としてニューアムステルダムを建設した。このときオランダ人が、イギリス人やインディアンの来襲から守るために北側に張りめぐらした柵が「ウォール・ストリート」(ウォール街)の地名の起こりである。ニューアムステルダムは1660年当時は、建物約300、人口約1300。ハドソン川周辺に広がったオランダ人植民地の中心になっていた。

ニューアムステルダムの失敗

 オランダ西インド会社は重商主義の手法を採り、貿易に専念して農業にもとづく開拓には不熱心だった。しかもその農業も、領主を中心とする封建的な荘園に近いやり方であったので、オランダの農民をアメリカ大陸に惹きつけるだけの魅力がなかった。1664年の夏、イギリスはジョン=カボットによって探検された地域はイギリス領であるという主張のもとに、軍艦を送りニューネーデルラントを奪取した。このときオランダ人の入植者は、オランダ西インド会社が自治を許さないことに不満をもっていたので、かえってイギリスに占領されることを歓迎した。イギリスも彼らを排除せず、緩やかではあったが自治を認めたのでイギリスの植民地ニューヨークとして発展することになった。その後、フィンランド人、ドイツ人、スウェーデン人が渡来し、ニューイングランドからピューリタンも移住してきたが、今日までニューヨーク州には多くのオランダ系の姓名が残っている。二人の大統領を出したローズヴェルトなどもその一つである。<中屋健一編『世界の歴史』11 中央公論社旧版 1961 p.24 などによる>

第2次英蘭戦争

 オランダは、イギリスのクロムウェル政権が出した航海法に反発して1652年に第1次英蘭戦争を戦い、敗れていた。クロムウェル政権崩壊後の王政復古後、チャールズ2世もかさねて航海法を押しつけ、さらに1664年、イギリスがニューアムステルダムを占領するという行為に出たので、翌1665年に第2次英蘭戦争となった。
 このときは1666年の四日海戦でオランダ海軍がイギリス海軍を破り、翌年には一時はテムズ川を遡ってロンドンを脅かす事態となった。そこで1667年に講和条約としてブレダの和約が調印され、オランダはイギリス領の南米大陸スリナムを獲得した。しかし、ニューアムステルダムについては上述のような状況だったため、返還を要求せず、イギリス領であることを認めた。こうしてこの地は正式にイギリス領となり、後にニューヨークとして大発展することとなる。オランダにとってはスリナムの方が大きな価値があると判断したのだった。
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