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イギリスの宗教各派

17世紀、イギリス革命期の宗教各派は、カトリック教徒(旧教徒)とプロテスタント(新教徒)に分けられるが、新教徒は国教会と非国教会の違いがある。非国教会の多くはカルヴァン派であるが、それにもピューリタンと長老派の違いがある。イングランドの基調はヘンリ8世以来の国教会であるが、革命期には主導権はめまぐるしく交代した。名誉革命後は国教会支配で安定するが、宗派的対立はその後のイギリスの歴史でも不安定の要素として続いている。

 イギリス革命の理解では、宗教的な対立軸がどのようであったかを抑えることが必要である。イギリス宗教改革の結果、イギリス国教会による宗教統制が確立したが、なおも宗教対立は続いていた。まず、大きな対立軸としてカトリック教会プロテスタント(新教徒)の対立がある。さらにプロテスタントの中にも国教会(アングリカン=チャーチ)とそれ以外の非国教徒(ノンコンフォーミスト Noncomformists )の違いがある。非国教徒はさらに独立派(清教徒、ピューリタン)・長老派(プレスビテリアン)の二派があり、対立していた。以上のイギリスのキリスト教4派の違いはおよそ、次のようにまとめることができる。

(1)カトリック

 イギリス宗教革命で国教会が成立してからも、メアリ1世のようにカトリックを捨てない国王もいた(カトリック反動)。エリザベス1世とステュアート朝のジェームズ1世チャールズ1世は国教会の立場をとり、カトリック・非国教徒のいずれをも弾圧した。カトリックは最右翼(保守的)の勢力で、保守的な貴族や大商人に多く、地域的にはアイルランドに多い。1605年11月5日にはカトリックのジェントルマンが国王を暗殺しようとして失敗(火薬陰謀事件)し、イングランドの民衆にカトリックに対する恐怖心、反感が強まるという事態となった。
 またピューリタン革命後に王政復古で国王となったチャールズ2世はフランスとの関係が深く(ルイ14世とのドーヴァーの密約など)、その弟のジェームズ2世とともにイギリスにカトリックを復興させようとし、議会と対立した。議会は1673年に審査法を制定してカトリック信者をイギリスの公職から追放し、宗教的差別が続くこととなった。1688年の名誉革命で、カトリック信者であるジェームズ2世が排除され、プロテスタントのメアリ2世ウィリアム3世がオランダから迎えられたことによって、カトリック排除は決定的になった。その時定められた寛容法でもカトリックは除外された。それは、カトリック教徒が新王への忠誠を拒否し、ジェームズ2世及びその後継者をイギリス国王に擁立しようとしていると見られたからであった。イギリスのカトリック信者が信仰の自由を回復するのは、ようやく1828年の審査法の廃止、翌年のカトリック教徒解放法などの一連の自由主義改革が実現するまで待たなければならなかった。
アイルランド問題 また、イングランドよりも古いカトリックの信仰が続くアイルランドは、クロムウェルによる征服以来、苦難の歴史をたどることになった。1801年のイギリスによるアイルランド併合は在来のカトリック教徒と入植者であるプロテスタントの対立によるアイルランド問題をさらに深刻にしていった。1922年にアイルランド自由国は独立したが、イギリス領に留まった北アイルランドでは多数派のプロテスタントに対し、少数派のカトリック教徒側による離脱を求める激しい武力闘争(北アイルランド紛争)が続いた。20世紀に至るまでイギリスがかかえた最大の内政問題であるアイルランド問題は、宗教的対立が要因であった。

(2)国教会

 国教会(アングリカンチャーチ)はヘンリ8世に始まる、国王が首長となっているイギリスの国家的な教会組織。国教会は反カトリックで、大きくくくれば新教(プロテスタント)にはいるが、ピューリタンと違い、教会での主教制度(カトリックでの司教制度、階層的な聖職者組織にあたる)を認め、儀式もカトリック的な面が強く残っていた。イギリス一般国民の多数派は国教会の信者=国教徒と考えてよい。ジェームズ1世、チャールズ1世はその国教会の立場に立ち、絶対王政を強化しようとした。しかし、ピューリタン革命で非国教徒の独立派クロムウェルが権力を握ったので、国教会は一時抑えられた。クロムウェルの独裁が倒れてからは国教会が宗教的な指導権を回復した。王政復古期のチャールズ2世・ジェームズ2世のカトリック復興策にも強く反発し、1673年に議会は審査法を制定し、カトリック教徒および非国教徒の公職につくことを禁止した。さらに名誉革命によってイギリスでは国教会の宗教的支配が確立する。ただし、国教会内部には、主教と典礼の権威を重視し、ピューリタンを否定する高教会派と、聖書に即した信仰を重視しピューリタンなど非国教徒に理解を示す低教会派の違いがあった。名誉革命体制を支えたのは低教会派であった。

(3)ピューリタン

 ピューリタン(清教徒)は非国教徒の一つで、イングランドでのカルヴァン派の流れをくむ新教徒。国教会の主教制度と長老派(プレスビテリアン)の長老の管理をいずれも否定し、教会は同等の信者の集まる独立したものであるべきであると主張したので独立派とも言う。イングランドのジェントリヨーマン(独立自営農民)に多かった。ジェームズ1世の時代には国教会の立場に立つ王政から弾圧され、その一部がピルグリム・ファーザーズとしてアメリカ大陸に移住した。ピューリタン革命ではクロムウェルの指導する独立派が権力を握って優勢となったが、王政復古の時期には再び抑えられるようになり、1673年の審査法でカトリックと共に公職に就けなくなった。名誉革命後の1689年、寛容法が制定され、信仰の自由が認められたが、審査法は継続していたので公職には就けず、国教会の優位は変わらなかった。

(4)プレスビテリアン(長老派)

 プレスビテリアン(長老派) presbyterians は非国教徒の一つで、ピューリタンと同じく同じくカルヴァン派の流れをくみ、スコットランドで発展した。プレスビテリアンをピューリタンの一派として説明することもある。彼らは長老制度(聖職者である司教ではなく、経験の豊かな信者を教会の指導者とする制度)による教会組織の運営を主張した点が異なる。ステュアート朝の女王メアリ=ステュアートはフランス王と結婚したこともあってカトリックに傾斜し、スコットランドでカトリックを強要しようとした。それに反発したプレスビテリアンは1559年にジョン=ノックスに率いられて反乱を起こし、スコットランドにおけるプレスビテリアンによる宗教改革が行われた。カトリックの国王を追放したスコットランドはプレスビテリアン教会が国境となった。ところが、メアリ=ステュアートの子のジェームズ6世が1603年にイングランド王ジェームズ1世となって同君連合となると、スコットランドにもイギリス国教会が強要されるようになった。次のチャールズ1世も国教会をスコットランドに強要したので、プレスビテリアン教会は強く反発して1639年スコットランドの反乱を起こした。これがイギリス革命の出発点となった。革命が進行する中で、イングランドでは長老派は王権との妥協をはかる穏健な立憲王政の主張を展開したため、ピューリタンであるクロムウェルの独立派によって議会から一時排除されたが、その死後に勢力を盛り返し、王政復古を実現する勢力となった。しかしチャールズ2世ジェームズ2世がカトリックを復興させると再び弾圧され、アイルランドなどに移住する者も多かった。審査法で公職に就けなくなったことは他の非国教徒と同じであった。
※その他の非国教徒 イギリスのプロテスタントは分裂を続け、バプティスト、クウェーカー、メソディスト、ユニテリアン(三位一体を認めない)などの教派が多数生まれている。この中のクウェーカーは、王政復古期に特に激しい弾圧を受け、その指導者ウィリアム=ペンがアメリカ大陸に新天地を求め、植民地ペンシルヴェニアを建設した。非国教徒(ノンコンフォーミスト)は、いずれも審査法で公職に就けないとされたが、ユニテリアンを除いて寛容法では信仰の自由が認められた。ただし、公職に就けないという状態は1828年の審査法の廃止まで続いた。

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