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1851年のクーデタ

フランスの第二共和政を倒してルイ=ナポレオンが権力を奪取した事件。

12月2日(アウステルリッツの戦勝とナポレオン1世の戴冠式の記念日)ルイ=ナポレオンはクーデタを決行。ティエールら秩序党首領を逮捕、議会を軍隊が包囲し、戒厳令を布告。議会解散と普通選挙の復活を告げる布告を出す。逮捕をまぬがれたヴィクトル=ユーゴー、ジュール=フェーブルら共和派はその夜、抵抗委員会を組織、サン=タントワーヌ街を中心にバリケードを築く。3日夜から4日にかけての市街戦で政府軍の砲火を浴び、粉砕され山岳派議員ボーダンら死亡。ユーゴーはからくもベルギーに逃げる。立法議会が解散させられたことによって1848年憲法は失効し、第二共和政は事実上ここで終わった。12月21日に行われた人民投票では、投票率83%、賛成92%の圧倒的多数がクーデターを支持するという結果となった。

クーデタの大義名分

 ルイ=ナポレオンに、クーデタの正当性の口実を与えたのは第二共和政憲法そのものの規定であった。憲法は国民が選出する大統領に大きな権限を与えていたが、その任期は4年で、再任を認めていなかった。議会内では秩序派(旧王党派の系統)が多数を占め、それに対抗するのは共和派であり、ルイ=ナポレオンを支持するナポレオン派はごく少数であった。このような状況で任期末が近づくと、権力を維持しようとすれば憲法を改正するかクーデタで議会を抑えつけるか、のいずれかしかなくなった。クーデタを避け、大統領と議会が話し合う議会政治を維持するには、憲法を改正すべきであるという意見もあった。アメリカの民主政治についての考察で著名な当時の外交官トクヴィルもその一人だった。しかし、議会は憲法改正には応じず、その前に選挙区に3年以上居住しなければ選挙権を認めないという選挙制度を改悪して労働者を排除しようとした。大統領ルイ=ナポレオンは選挙法改正の廃案を提案したが議会はそれを否決した。ここにルイ=ナポレオンは「普通選挙を擁護する護民官」としてクーデタの錦の御旗を得たのだった。<鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版 p.122-134>
クーデタの背景 六月暴動以来の弾圧で指導者を失った労働者は、議会共和派の反動化で絶望、「貧困の絶滅」をうたう「皇帝社会主義」に期待する者も出てきた。ブルジョアジーは独裁よりも「赤い妖怪」の方を恐れ、小土地所有者は第一帝政時代の夢を追い、クーデタを支持した。12月21日国民投票、約740万対60万でクーデタ承認され、翌年1月大統領任期を10年とし権限を強化した新憲法が発布される。
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ノートの参照
第12章1節 オ.1848年革命