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第二帝政

1852~70年までのナポレオン3世の時代のフランス政体。

近代フランスの歴史の中で、19世紀後半の1852年から70年までの22年間のナポレオン3世による統治時代を第二帝政という。この時期の政治形態は、ナポレオン1世の時代と共に、ボナパルティズムと言われている。産業革命の進行に伴って資本家階級(ブルジョアジー)が成立したが、議会政治の未発達のもとで、皇帝が労働者、農民の大衆的な支持を受け、軍隊と官僚を駆使して独裁的な政治を行うことができた。

第二帝政の帝国憲法の特徴

:行政・軍事・外交の全権は皇帝に集中、あらゆる官職は任命制となり、大臣は皇帝だけに責任を負い、法律の発案権は政府が握り、皇帝の任命する国家参事会が起草する。また勅撰議員からなる元老院が憲法改正の発議権を持つ。立法院は男子普通選挙で選ばれる任期6年の議員からなるが、発議権や修正権はなく、討議・採決するだけであった。普通選挙そのものも官選候補制と知事の露骨な干渉で骨抜きになっていた。

第二帝政時代のフランス

 復古王政・七月王政の時代は、産業革命が端緒についたとはいえ、産業の発展は不十分であり、また社会全般でもカトリック的な復古的精神が支配的であった。しかし、ナポレオン3世の第二帝政期の約20年間のうち、前半の50年代は、権威帝政の時期といわれて、もっぱら皇帝の専制政治が行われていたが、後半の60年代には自由帝政といわれ、自由主義的・社会主義的な改革も行われた。その時期は、フランスの産業革命が完成の段階に達した時期であり、ナポレオン3世はそれに対応して、保護貿易主義から自由貿易主義に転換し、産業資本家の利益に沿って鉄道の敷設などの産業育成策を進めたのだった。フランスの産業社会の成立を誇示するために、1855年と64年の二回、ナポレオン3世はパリ万国博覧会を開催している。資本主義社会が形成される一方で、労働運動も活発になってきて、社会主義の運動も新たな政治勢力として登場した。その主な変化には次のようなものがある。<ティエリー・ランツ『ナポレオン三世』1995 文庫クセジュ 白水社 p.112-123>
  • 近代銀行制度の整備:カリフォルニア(1848年)、オーストラリア(1851年)と相次いだ金鉱発見によってフランスにも金貨が流入し、フランス銀行の金貨保有量は48年から70年の間に8倍に増加し、貨幣の増発が銀行システムの整備と共に交換を促進した。1852年には従来のロスチャイルド系金融機関と違う産業投資銀行としてクレディエ=モビリエが設立され、59年には商工業銀行、63年にはクレディ=リヨネ、64年にはクレディ=ジェネラルがそれぞれ創設された。さらに兌換制度が強制適用が一般化し、各種フラン紙幣が発行されるようになった。
  • 国土の整備鉄道は1850年の3600kmから1870年の2万3300kmまで延長され、列車による乗客輸送は4倍、貨物輸送は10倍に達した。植民地拡大と自由貿易政策に刺激されて海上輸送量も増加し、港湾が整備された。また、腹心のオスマン知事に首都パリの大改造を行わせた以外にも、リヨン、マルセイユ、ボルドーなどの地方都市も改造が進み、近代都市としての原型ができた。
  • 貿易の自由化:1860年の英仏通商条約で関税の引き下げ、輸入禁止品目の廃止など自由貿易の原則に転換した。以後、プロイセン、北ドイツ、イタリアなどと次々と自由貿易協定を結び、西ヨーロッパの自由貿易圏の形成を促した。それによって貿易は活発化し、ボルドー産のワインなどのイギリス向け輸出が急増しただけでなく、イギリスの安価な工業製品が流入したため国内の遅れた手工業分野は淘汰され、フランスの産業革命が進展した。
  • 労働運動の活発化:産業は一定の発展をみたが、農業は依然として古い体質を保持し、農民の待遇改善は進展しなかった。また都市の工場労働者が急増し、その待遇改善が問題となり、労働運動が1840年代の活況を取り戻した。ナポレオン3世は、団結権を禁止したル=シャプリエ法の廃止、裁判所の監視下におかれたストライキ権の創設(64年)などの改良的政策を打ち出した。1864年には国際労働者協会(第1インターナショナル)が生まれ、フランスにもその支部がつくられた。それをうけて労働運動が活発となり、組合結成やストライキが続いたが1870年には炭鉱争議に軍隊が介入し死者が出るなど、対立は次第に鮮明になっていった。
  • パリの改造と繁栄:セーヌ県知事オスマンによるパリの改造は1853年に始まり、彼が失脚する1870年までの間に三次にわたって行われ、中世以来の古い無秩序な市街は一変し、放射状のプランをもとにした広い道路によって区画された、計画的な大都市に変貌した。また第二帝政が始まった翌年の1852年にはブシコーという夫妻がパリにデパート(百貨店)という形態の新しい商業施設「ボン=マルシェ」を開店、それが大成功してパリは近代的なブルジョワ都市として世界の流行の発信地となった。

人気取りの外交政策

 「人気取り」のために膨張的な外交政策をとったが、それは常に危険な冒険を伴っていた。
  • クリミア戦争 1853~56 聖地(イェルサレム)の管理権を巡りロシアと対立。オスマン帝国、イギリス、サルデーニャなどとともに戦い、勝利することによってナポレオン3世を高めた。
  • アロー戦争 1856~69 清の太平天国の乱の最中、宣教師殺害を口実にイギリスとともに出兵し北京を攻撃。北京条約で布教の自由などを清に認めさせる。
  • イタリア統一戦争1859 サルデーニャの首相カブールと密約しそのオーストリアとの戦争を支援。しかし途中でオーストリアと単独講和しサルデーニャを裏切る。
  • インドシナ出兵 1858~62 ラオス、カンボジア、ベトナムに出兵し、フランス領インドシナ植民地の基礎を築く。
  • メキシコ出兵 1861~67 アメリカの南北戦争の最中、メキシコの政権交代に介入して出兵するも、激しい抵抗を受け失敗。
  • 普仏戦争 1870年 ナポレオン戦争の復讐戦をもくろむプロイセンのビスマルクの挑発に乗り、開戦。スダンの戦いで皇帝自身が捕虜となったため退位に追い込まれた。
 結局、対外冒険主義の外交がナポレオン3世の命取りとなった。普仏戦争の敗北によってナポレオン3世はイギリスに亡命し、第二帝政は終わりを告げた。さらにドイツ軍にパリを包囲される中、臨時政府がドイツへの降伏を決定すると、パリ市民が降伏に反対して立ち上がり、パリ=コミューンという独自政権を樹立する。しかしドイツ軍の力で市民・労働者の決起を押さえつけたブルジョワ政権のもと、第三共和政が成立することとなる。
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第12章2節 エ.第二帝政と第三共和政