印刷 | 通常画面に戻る |

ホイッグ党(アメリカ)

アメリカで1834年頃結成された反ジャクソン派の政党。40年代にタイラーやフィルモアなどの大統領を出したが、奴隷制度に対する対応で分裂し、1854年に結成された共和党に吸収された。

反ジャクソン派

 ジャクソン政権が絶大な国民的支持で強大になったことに対し、その政権独占を批判した人々が結集して、ナショナル・リパブリカン党(国民共和党)と称し、1832年の大統領選挙ではヘンリー=クレイを候補者として大統領選挙に臨み、かつてのフェデラリストに近い保護主義、連邦政府の強化、合衆国銀行の復活、最高裁判所や上院の権威の維持といった主張を掲げたが、ふたたびジャクソンの民主党に敗れてしまった。
 彼らは1834年頃「ホイッグ党」と称するようになったが、それはジャクソンを専制君主と見立て、自らをイギリスで王権に対する抵抗を掲げたホィッグ党と同じ立場にあるとして名付けたものであった。
 当初中心であったのはジョン=クィンシー=アダムズ(第6代大統領)、クレイ(1820年のミズーリ協定成立に尽力した)などで、ジャクソン派の西部の農民を基盤とした政権運営に批判的な東北部工業地帯と南部の綿花プランターの利益をともに図る「アメリカ体制」を主張した。

1840年代

 1830年代はジャクソン(在任1829~1837)~ヴァン=ビューレン(在任1837~1841)大統領と民主党政権が続き、ホイッグ党は野党に甘んじていたが、1840年代にはいずれも軍人として人気のたかった人物をかついで二度に渡り政権を握った。しかしそのいずれも途中で病死し副大統領が昇格するという事態が続いた。
 まず、1841年にインディアン討伐や米英戦争(1812年戦争)で軍人として活躍して人気の高かったハリソンを立てて当選、はじめて政権の座についた。しかし、ハリソンは就任1ヶ月で病死し、副大統領タイラーが昇格(在任1841~1845)した。さらに、テキサス独立をめぐって党内対立が表面化し、1844年大統領選挙では民主党に敗北、ポーク大統領に交替した。ポーク政権が強行したアメリカ=メキシコ戦争には、当時ホイッグ党の若手代議士だったリンカンが反対の論陣を張った。1848年選挙では、アメリカ=メキシコ戦争で活躍した将軍テーラーをホイッグ党候補として当選させたが、この大統領も1年で病死し、副大統領フィルモア(在任1850~53)が昇格した。
ホイッグ党の通商政策 ホイッグ党はフェデラリスト党の政策を継承し、アメリカの工業の保護のための高関税政策と合衆国銀行の復興を掲げたが、大統領の病死などの混乱のため成果を上げることはできなかった。海軍力を強めて通商を活発にする政策は民主党の反対もなく、順調に進んだ。1844年にはタイラー大統領が中国の清朝との間で望厦条約を締結して正式な国交を樹立し、1853年にはフィルモア大統領はペリーを派遣して日本の開国を実現させた。これは次のマッキンレー大統領時代のアメリカの海外進出の前兆となる動きだった。
民主党の成長 「ホイッグ党が政権獲得のために戦勝将軍を候補者に推し、党の政策を明白にするのを避けている間、民主党は自己の主張を次第に明細にしつつあった。」<ビアード『アメリカ政党史』斉藤眞、有賀貞訳著 p.81>

黒人奴隷制問題で分裂

 しかしフィルモア大統領は、1850年にカリフォルニアを自由州として州に昇格させる見返りに、逃亡奴隷法を認め(1850年の妥協)、それに反対するストゥ夫人の『アンクル=トムの小屋』が発表されるなど、激しい奴隷解放運動が起き、ホイッグ党もその対応をめぐって奴隷制拡大反対派と維持容認派に分裂してしまった。
 1853年には政権を民主党に明け渡したが、そのピアス大統領のもとでカンザス・ネブラスカ法が制定され、奴隷州拡大を制限していたミズーリ協定が否定されたことから、奴隷制拡大反対派は危機感を強め、リンカンなどを中心に共和党を結成、ホイッグ党の奴隷制拡大反対派はそれに吸収されて消滅した。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第12章3節 ア.領土の拡大
書籍案内

C.A.ビアード
/斉藤眞・有賀貞訳
『アメリカ政党史』
1968 UP選書