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民主党

アメリカ合衆国でジャクソン大統領支持者が1832年に民主党と称した。西部・南部の自営農民を基盤とし、19世紀前半はホイッグ党と交互に政権を担当した。南北戦争期には奴隷制維持のため戦ったが敗れ、大きく政策を転換、戦後は北部の都市中下層にも支持を広げた。共和党政権が続く中、ウィルソンは第一次大戦、F=ローズヴェルトは第二次大戦をそれぞれ指導した。大戦後は革新的政策、国際協調路線の外交などを掲げ、保守政党としての共和党と交互に政権を担当している。

民主党の前身

 現在のアメリカ合衆国で共和党と並ぶ二大政党の一方の政党である民主党は、1820年代に政党として活動するようになったが、正式に民主党 Democratic Party と名のったのはジャクソン大統領の時代の1832年とされている。
ジェファソンのリパブリカン党 アメリカ合衆国の建国に際して、アメリカ合衆国憲法の制定過程で明らかになった、フェデラリスト(連邦派)とアンチ=フェデラリスト(反連邦派)の対立があったが、そのうちの後者の指導者であったジェファソンが結成したリパブリカン党が民主党の前身となった。リパブリカン党は「共和党」と言う意味であるが、現在の共和党にはつながっていないので注意を要する。
リパブリカン党の分裂 反連邦主義(州権主義)を掲げて結成したリパブリカン党であったが、ジェファソンが大統領となった1801年以来、合衆国の権力をにぎっていたが、その時代の1803年のルイジアナ買収などによってアメリカ合衆国の国土が西南部に広がって行くに従い、新しい州が生まれて行くにしたがって意見の相違が現れた。それは連邦主義を容認する国民共和党(ナショナル・リパブリカン党=National Repabulican Party)と、州権主義を維持する民主共和党(デモクラティック・リパブリカン党=Democratic-Republican Party)への分裂に至った。
ジャクソンの登場 1820年代にアメリカ合衆国の西南部で増加していった開拓農民は、それまでの東部を拠点とした産業資本家や大地主によって支えられていた首都ワシントンの既成政治家に次第に反発するようになった。彼らの声を代弁したのが、自ら西部農民の出身で、1812年の米英戦争で活躍した将軍ジャクソンであった。1828年の大統領選挙に彼が東部富裕層の既成勢力打破をとなえて出馬すると、民主共和党は彼を支持し、西部・南部の農民層の支持を受けて大統領に当選させた。

民主党の変化

 民主党は1832年にジャクソン支持者によって結成され、当初は西南部の独立自営農民層を支持基盤とした政党であった。また反連邦主義・州権主義にちかい存在であった。しだいに南部黒人奴隷制支持者が主流を占めるようになり、北部の民主党員は反主流派となった。
南北戦争での転換 ところが南北戦争で南部が敗北したことによって民主党は解党的打撃を受けたが、その後南部の復帰に従って勢力を回復するとともに、北部の共和党の間隙を縫って労働者層や移民層に支持を広げ、全国政党として再起する。それ以後の民主党は共和党に対抗して二大政党政治を展開するが、その間、北部民主党員が主流を占めるようになっていった。
革新政党への変身 20世紀に入ると、ウィルソン、F=ローズヴェルトが登場し、保守色の強い共和党に対して、民主党は革新的性格を強め、労働者層や黒人の支持を受け、戦後のケネディ、カーター、クリントン、オバマというリベラル色の強い政権に継承されていく。ただ、現在でも南部には保守的な民主党員も存在している。このように民主党と言っても時代に適応してその政策と支持勢力を変化させており、一貫しているわけではない。
 → (1)結成から南北戦争へ (2)南北戦争による転換 (3)帝国主義時代の転換 (4)F=ローズヴェルトとニューディール (5)ケネディの時代 (6)80年代から現代まで
★主な民主党の大統領(数字は就任年) ジャクソン(1829)・ポーク(米墨戦争)(1845)・クリーヴランド(1885)・ウィルソン(1913)・フランクリン=ローズヴェルト(1933)・トルーマン(1945)・ケネディ(1961)・ジョンソン(1963)・カーター(1977)・クリントン(1993)・オバマ(2009)

民主党(1) 結成から南北戦争へ

1832年にジャクソン支持勢力が結成した民主党は西南部の農民層を基盤とし、州権主義を継承した。反ジャクソン派が結成したホイッグ党と対抗したが、40年代には政権を担当することが多かった。しかし、次第に南部のプランターの利益代表として黒人奴隷制の拡大を主張するようになり、北部との対立が決定的となり、南北戦争となる。

民主党の結成

 1832年にジャクソン支持勢力は新たな政治勢力として結集し、民主党に改称した。このように民主党は西南部の農民層を基盤とした、ジャクソン支持者によって結成された政党であり、独立自営の精神をバックボーンとし、傾向としては州権主義を継承して連邦政府の権限を制限し、州の自治を拡大する政策をとった。しかし実際にはジャクソンの個人的な手腕に依存する面が強かったので、それに反発する国民共和党はホイッグ党を結成した。1840年代からは民主党は南部のプランターの利益代表として、黒人奴隷制の拡大を主張するようになる。

ジャクソン大統領と民主党への改称

 アメリカ合衆国のジャクソン時代は民主主義(ジャクソニアン=デモクラシー)が進展した時代とされ、その支持政党であった民主共和党は、ジャクソン在任中の1832年に正式に民主党(デモクラット党 Democratic Party)を名のることとなった。それが現在の民主党につながっている(その主張は時期によって大幅に異なってくるので注意すること)。一方、国民共和党は、ジャクソン大統領の強権的な手法に反発ししてホイッグ党を結成し、二大政党が成立した。

Episode デモクラシーは危険な思想とされていた

 「デモクラシー」は「一世代前には無秩序を連想させ上流社会から恐れられた言葉」であった。ジェファソン系列のリパブリカン党が、ジャクソン時代に其の旧名を捨て、民主党となったことは、イギリスにおけるコブデンブライトらの登場と同じような、社会情勢の変化の結果であった。この時代はもはやワシントン時代の合衆国ではなく、ニューイングランドを中心とした北西部の金融・工業勢力は、労働者層・西部の農民層・綿花プランテーションの奴隷所有者の三者とが対立する情勢へと変化していた。<ビアード『アメリカ政党史』UP選書 p.70-71>

ホイッグ党との二大政党時代

 民主党はジャクソンの支持基盤であった南部と西部の自営農民を中心に広い支持を集め、1829~61年の間、ホイッグ党がともに人気の高い軍人を大統領候補として当選させた2回(1840年のハリソンと、48年のタイラー)の8年間を除いてを除いて大統領選挙で勝利し、政権を独占した(バン=ビューレン、ポーク、ピアス、ブキャナンの各大統領)。その基本政策は、
・南部の綿花プランテーションの綿花輸出の利益を守るため保護貿易に反対。
黒人奴隷制はプランテーション維持の為に必要。
・合衆国銀行(中央銀行)は金融勢力の牙城に過ぎないので廃止するなど、経済政策では政府は民間に介入しないレッセ・フェール(自由放任主義)をとった。
・プランターと自営農民により多くの土地をもたらすこととなる領土膨張を進め、テキサスを併合、アメリカ=メキシコ戦争でカリフォルニアなどを獲得した。

奴隷制拡大派の優勢

 特に、1854年のカンザス・ネブラスカ法は奴隷州と自由州を均衡させ、北部への奴隷制の拡大を制限していたミズーリ協定(1820年)を破棄する内容であり、また最高裁が1857年に出したドレッド=スコット判決のいずれも民主党の意向を汲んだものであったので、反発した奴隷制拡大反対派は共和党を結成、リンカンもその主要なメンバーとなった。

民主党の分裂

 こうして北部の産業の保護と奴隷解放による市場拡大と労働力の確保をもとめる声が強くなり、奴隷制拡大反対を主張する共和党の進出を見ることになる。また1860年には、奴隷制に対する見解で、新州がが連邦に加入する際、自由州か奴隷州かの選択を住民が決して良いと主張するグループと、連邦議会は州の奴隷制を制限することは出来ないと主張するグループが対立し、分裂状態となった。そのため同年の大統領選挙では共和党のリンカンの当選を許し、南部のプランターが反発してアメリカ連合国を結成すると、民主党は分断され、窮地に陥った。

民主党(2) 南北戦争による転換

南北戦争の南部の敗北で打撃を受けた民主党であったが、南部の再建とともに党勢を復活させ、さらに北部の労働者・移民層に支持を広げた。黒人奴隷制支持政党からは脱却したが、南部保守派にはなおも黒人との平等に消極的な勢力も残った。 。

南北戦争

 南北戦争アメリカ合衆国の政党のあり方も大きく変化させた。民主党は戦争前にすでに実質的に分裂していたが、さらに戦争によってその基盤であった南部プランター層が急速に没落し、またホームステッド法によって恩恵を受けた西部の農民層も共和党支持に変わったこともあって、解党的な危機に陥った。
北部への進出 南北戦争後はそのような危機を迎え、民主党は政党として存続するために大胆にその政策を農業中心から工業中心に転換させ、共和党の勢力のおよんでいない新たな支持層を開拓しようとした。そこで新生民主党が着目したのが、アメリカの急激な工業化によって増大しつつあった北部の労働者層と、おなじく急速に増加してきた移民であった。また、「再建」が進み、南部諸州の復帰が進んで白人が地位を回復していくなかで、民主党は次第に復調し、共和党に対抗できるだけの全国的な政党組織を復活させることができた。奴隷制が廃止されたことで民主党内の対立点はなくなったが、南部民主党員の中には依然として黒人に対する差別意識が強く残っており、一部急進派にはクー=クラックス=クランに心情的に近い人々も存在した。
1877年の妥協 1876年の大統領選挙は共和党のヘイズと民主党のティルデンの激しい争いとなった。結果はティルデンの僅差の勝利となったが、ヘイズ側が南部三州(サウスカロライナ、フロリダ、ルイジアナ)で不正があったと疑義をはさんだ。この三州の選挙人は19人で、それがヘイズ票となれば結果は逆転する。両党は非公式に折衝を重ねた結果、妥協が成立、民主党はヘイズの勝利を認める代わりに、サウスカロライナとルイジアナの連邦軍の撤退を約束させた。その密約に基づいて1877年に共和党ヘイズが大統領に就任、南部民主党の重鎮クレイを国務長官に任命した。この“とんでもない”妥協で、民主党は名を捨てて実を取り、南部から連邦軍を撤退させ、党勢回復を決定的にして、黒人差別を復活させていった。このアメリカ史上「1877年の大妥協」といわれる談合は南部社会に大きな変化をもたらした。南部は民主党の牙城となり、徹底的に人種差別政策が推し進められていく。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社新書 p.85-86>

共和党との二大政党政治

 南北戦争後から1880年代初めまで共和党の大統領が続いたが、議会では民主党がかなりの復調を見せ、1884年の大統領選挙では、共和党の指名争で敗れた反主流派を取り込んで、クリーヴランド(任期1885~89)が当選した。1888年の選挙では関税引き下げを掲げたが、僅差で共和党のハリソンに敗れ、92年選挙ではふたたび当選し、第2期を努めた(任期1893~97)。
 しかしこの頃になると、共和党と民主党の政策的対立はほとんどなくなってゆき、それに対する不満を感じている労働者の中から社会主義政党(1877年の社会主義労働党、1900年の社会党、1919年のアメリカ共産党)も出現し、また農民の中にも急進的な農民運動を掲げる政党(1892年の人民党)、さらに禁酒運動を進める正当など「第三党」が出現するようになった。しかし、民主党のクリーヴランド大統領は1894年の大規模な鉄道労働組合のストライキであったプルマン・ストライキに介入して鎮圧したように、保守主義的な体質をぬぐえなかった。また、労働組合の全国組織であるアメリカ労働総同盟(AFL)も政治活動を否定して経済闘争を主眼としたので、ヨーロッパに見られるような社会主義政党の進出は見られなかった。

民主党(3) 帝国主義時代の転換

19世紀後半、アメリカ資本主義は急速な発展を遂げ、帝国主義かが進むと、民主党は大企業抑制、農民保護のための低関税などを主張した。19世紀末には革新主義が台頭、共和党が分裂したことを受け、1912年にはウィルソンが政権を獲得、第一次世界大戦期を主導した。その過程で民主党はリベラルな革新政党という性格を強めていった。

民主党の再転換

 19世紀の後半のアメリカ合衆国において資本主義の高度な発展は大企業を出現させるとともに、帝国主義段階へと突入すると、周期的な恐慌を繰り返すようになった。すると二大政党の経済政策に明確な違いが現れ、共和党は大企業の利益を擁護するため市場に出回る通貨量の抑制、保護関税制を主張して北部で優勢であり、民主党は支持基盤である南部の農民保護のために、通貨量を増やしてインフレにし、負債を軽減することを主張し、農家への政府融資、低関税、大企業の規制強化なども要求した。<杉田『上掲書』 p.87>
 共和党マッキンリーにつづくセオドア=ローズヴェルトの時代(1897~1909)は、米西戦争ハワイ併合などアメリカ帝国主義が押し進められていった。しかし、帝国主義政策と結びついた独占資本主義の形成が進み、ロックフェラーやモルガンなどの巨大資本が形成されていくと、その一方で貧富の差が拡大し、労働者や農民の疎外感が強まったことを背景に、社会の変革を求める気運が高まった。民主党は革新的な主張を掲げたブライアンを立てて選挙を戦い、南部では票を集めたが、いずれも共和党に敗れた。

Episode 「西部のグラックス」ブライアン

 1896年と1900年に民主党から大統領選挙に立候補したウィリアム=ブライアンは「賃金労働者・田舎弁護士・四辻の雑貨屋・農民・鉱夫らの側に立って戦う」と述べて、資本家ではなく大衆の側に立つことを明らかにした。いずれも帝国主義的な膨張政策を掲げた共和党のマッキンリーに敗れたが、このころから保守的な共和党に対して、革新的な民主党というイメージが出来上がっていった。ブライアンは1908年にも民主党候補として立候補したが、共和党タフトに敗れた。
(引用)左翼の伝統に合致する政綱を作成した民主党は、いみじくも「西部のティベリウス=グラックス(民権擁護のために戦ったローマの護民官)」と呼ばれたウィリアム=ジェニングス=ブライアンを、大統領候補に指名した。有名な「金の十字架」演説の中で、ブライアンは彼が賃金労働者・田舎弁護士・四辻の雑貨屋・農民・鉱夫らの側に立って戦うことを明らかにしていた。彼は、自己の友としてこれらの人々をあげ、「われわれはこれらの人々のために語るのだ」と叫んだ。<ビアード『アメリカ政党史』UP選書 p.125>
 2016年の民主党大統領指名をヒラリー=クリントンと争ったサンダースと同じような人がいた。民主党を革新政党というイメージ変えたブライアンであったが、一面では進化論には強く反対するキリスト教原理主義者でもあった。

革新主義と共和党の分裂

 そのような気運の中で、全国的な改革運動として革新主義(Progressivizm)が起こり、都市中間層を中心として多様な階層が結集し、上院議員の直接選挙やトラスト規制(独占の制約)、税制や関税の改革、労働者の保護などを要求するようになった。革新主義は共和党に強い影響を及ぼし、セオドア=ローズヴェルトは大統領から退いた後、自らその動きに同調して共和党から分離し、1912年に革新党を結成して第2期に立候補した。

ウィルソン大統領

 この共和党の分裂に乗じて、1912年の大統領選挙に当選したのが民主党のウィルソンであった。ウィルソンも大銀行家・大製造業者・豪商・鉄道会社や汽船会社の支配者を特権勢力として、政治を大衆の手に取り戻すことを掲げ、彼の獲得した一般投票は対立候補の得票の合計より200万票少なかったが、共和党が分裂していたために容易に当選できたのだった。
 就任から1年あまりで第一次世界大戦が勃発、アメリカは中立政策をとる間に、工業製品と農産物がヨーロッパの交戦国の厖大な需要によって活況を呈し、社会問題は背後に追いやられた。しかし、ウィルソンは二期も含めて新しい自由(ニューフリーダム)と称して、反特権・反独占を基本とした革新的な政策を実施した。とくに1914年のクレイトン反トラスト法は労働者から歓迎された。ついに1917年にアメリカの第一次世界大戦参戦に踏みきり、大戦後の国際社会の指導理念として十四カ条を掲げ、アメリカの孤立主義外交を転換させようとした。しかし、共和党の主導する議会はウィルソンの提唱した国際連盟への参加を拒否した。
 第一次世界大戦後の1920年大統領選挙で民主党候補となったコックスは、ウィルソンの後継者として国際連盟案批准、産業経済規制の継続、帝国主義的海外進出に反対という姿勢で戦ったが、「平常(ノーマルシー)への回帰」を唱え、規制緩和、海軍力強化による積極的海外進出などをとく共和党のハーディングに敗れた。民主党ウィルソンの理念はこの段階では国民に十分支持されていなかったのだった。

1920年代、共和党政権下の民主党

 戦間期のアメリカの1920年代は、再び共和党の大統領、ハーディング・クーリッジ・フーヴァーと続き、大企業・大銀行・大投資家による自由放任経済が展開され、空前の経済好況の時代となった。民主党はいずれも対立候補を立てたが、国民は革新や平等、国際協調と言った理念よりも、経済の繁栄、自国の隆盛をもたらす政策を実行するとして共和党に票を投じていた。
アル=スミス この間、ウィルソン後の民主党は、東部の都市の移民層と西部の農村の小農民との対立によって揺らいでいた。前者の勢力を代表する人物として、ニューヨークの移民の出身でカトリック信者であったアル=スミスはニューヨーク州知事を経て1928年の大統領選挙で民主党の指名を獲得することに成功し、北部民主党が主導権を握ったが、プロテスタントの小農民層の多い南部民主党はアル=スミスに反発して共和党に投票するものあり、民主党の団結が失われた。しかし、民主党の主流は、都市の市民を主体とした「進歩派」が占めるという流れができ、次のフランクリン=ローズヴェルトにつながることになる。

民主党(4) F=ローズヴェルトとニューディール

1920年代政権を独占した共和党は29年の世界恐慌に直面してその対応に失敗し、33年に民主党F=ローズヴェルトが大統領としてニューディール政策を展開、第二次世界大戦の勃発に当たっては連合国をリードして戦後世界の枠組みを作った。4選を果たしたF=ローズヴェルトが病死したのを受けて昇格したトルーマンが広島・長崎に原爆投下を実行。冷戦の深刻化の中で朝鮮戦争が起こり、混迷する中1953年から共和党政権が復活しアイゼンハウアー政権となった。

F=ローズヴェルト大統領

 世界恐慌に対して、共和党フーヴァー大統領が対応に失敗したため、1932年の選挙は民主党有利が予想された。人々はこのような難局に対処できるリーダー像を求め、それがアル=スミスの後を継いでニューヨーク州の進歩派知事を務めていたフランクリン=ローズヴェルトに合致したと言える。彼は都市の大衆の支持を受け、しかもプロテスタント系の名門地主の出身であったことから、民主党の一致した候補者となり得たのだった。 → 世界恐慌期のアメリカ
「ニューディール連合」の形成 F=ローズヴェルトがニューディール政策を打ち出し、恐慌の克服を社会主義的な要素も入れたケインズ的な経済政策を行ったこと、労働組合の保護や労働基本権の保護、社会保障に熱心であったことなどから、民主党は「革新政党」であるというイメージが出来上がった。また、F=ローズヴェルトの登場によって、民主党は南北戦争後の「再建」期の強固な基盤であった南部の白人保守派と、北部のリベラル派を構成する労働組合、カトリック教徒、ユダヤ人、黒人などがF=ローズヴェルト支持という一点で「ニューディール連合(ローズヴェルト連合とも)」と言われる大連合を形成した。
多数派革新政党へ こうしてフランクリン=ローズヴェルトはウィルソンと並んで内政における革新性、外交における国際協調というその後の民主党の基本的な姿勢を作る上で大きな存在となった。民主党がリベラルな「革新政党」というイメージが出来上がると、それに対して共和党は、政策的にはニューディールに追随せざるを得ないと判っていても、対抗上、「保守政党」として違いの明確にしないと、政党としての存在意義を失いかねない状況となった。
(引用)かくして、かつて農民を主体とした民主党は、今や都市大衆を主な支持者とし、広く低所得者層に訴える政党として再編を完成し、都市化・工業化を背景に、今や半恒久的少数政党から半恒久的多数党へと転換を遂げたことになった。<ビーアド『アメリカ政党史』UP選書 斉藤眞執筆の補論 p.186>

第二次世界大戦

 1939年、第二次世界大戦が勃発するとF=ローズヴェルトのアメリカ合衆国は、当初は不介入政策をとりつつ、武器貸与法でファシズムに対抗するための連合国の結束を強め、イギリスのチャーチルとの大西洋憲章で早くも戦後構想をうちだし、日本軍の真珠湾攻撃を契機に参戦して太平洋戦争に突入するとともにで欧州戦線に軍隊を投入、連合国軍を勝利に導いた。戦争中に彼が構想した国際連合は戦後世界の枠組みとなった。マンハッタン計画原子爆弾の開発に着手した。
 大戦末期に4選を果たした直後、F=ローズヴェルトは死去し、副大統領トルーマンが昇格した。トルーマンポツダム宣言に署名して日本に無条件降伏をせまり、広島・長崎への原子爆弾の投下を実行した。

戦後のアメリカ

トルーマン大統領 トルーマンははからずも第二次世界大戦後のアメリカを主導することとなった。再選を目指した1948年の大統領選挙でニューディールの継承、社会保障制度の拡大などを柱にフェアディールをかかげて積極的な選挙運動を展開し、劣勢をはね返して再選された。トルーマンは人種差別撤廃に積極的で、リベラルな姿勢を採ったので、民主党内の南部保守派は人種分離法を支持して「州権党」を作って分離し、民主党の統一に亀裂が入ったため、議会は共和党が多数を占めることとなった。そのためトルーマンは内政で見るべき成果を上げられず、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、外交処理に忙殺されることとなった。
共和党アイゼンハウアー政権 1952年の大統領選挙では民主党はニューディールの継承を掲げたスティヴンソンを立てたが、共和党は政策論争よりも選挙の顔として第二次世界大戦の英雄アイゼンハウアーを立て当選させた。背景には、民主党長期政権下でニューディール政策が定着したことによって、かえってその支持層が保守化して共和党に鞍替えする傾向が出てきたことがあげられる。また、国民も永く続いた民主党政権からの何らかの変化に期待した。そこに登場した「アイク」の愛称で知られた庶民的な軍人アイゼンハウアーに国民は親近感を感じたのだった。

民主党(5) ケネディの時代

1961年から始まるケネディ大統領時代は、黒人の公民権を認めるなど革新政党としての民主党の政策が前面に打した。外交では東西冷戦の深刻化が進み、特にキューバ危機に直面したが、最悪の事態は回避し、その後は米ソの平和共存を模索することとなる。ケネディ暗殺後に昇格したジョンソン政権は、ベトナム戦争に本格的に突入、戦後のアメリカの大きな転換をもたらした。

ケネディの登場

 1953年からアメリカ合衆国で2期8年続いたアイゼンハウアー共和党政権が、1957年のスプートニク=ショックなどで動揺し、民主党に政権奪回の機会が訪れた。そこで民主党は世代交代を演出し、新鮮な候補者を選ぶ必要にせまられ、選ばれたのがケネディであった。45歳の若さとインテリ風の弁舌で人気を博し、特に初めて大統領選挙に導入されたテレビ討論で共和党のニクソンに対して優位に立って勝ったが、その勝利は11万票しかない僅差であった。
 1961年からのケネディ政権は「ニューフロンティア」を掲げ、民主党の主張である黒人差別撤廃を実現するための公民権法案作成に入った。63年8月にはキング牧師が指導したワシントン大行進が行われ、公民権運動は最高潮に達した。外交面では東西冷戦の深刻化にともない、ヨーロッパのベルリン問題、足下のカリブ海でのキューバ革命に直面した。カストロのキューバとは断交し、さらにキューバ危機を迎えたが、ケネディ大統領は果敢な交渉でソ連のフルシチョフとの妥協を引き出して危機を脱し、評価を高めた。しかし、63年11月、南部のダラスで凶弾に倒れ、その政策は副大統領ジョンソンが継承した。翌年、ジョンソンは改めて大統領に選出され、公民権法を実現させ少数者の権利を守るアファーマティヴ・アクションを軌道に乗せたが、ベトナムへの介入に踏みきり、ベトナム戦争の泥沼に突入し、68年に共和党ニクソン政権に交代した。

ベトナム戦争と民主党

 第二次世界大戦後の世界の激変は、アジアにおいては1949年の中華人民共和国の成立であった。次いで起こった朝鮮戦争は1953年に休戦が成立、54年にはインドシナ戦争(第一次)が終結しフランス軍が撤退した。アメリカは東南アジアの共産化を恐れてベトナムへの介入を続け、南ベトナム政府支援を開始し、ケネディ政権もそれを継承した。
ジョンソン大統領 しかし、南ベトナム政府は腐敗し、弱体であったのに乗じて北ベトナムの攻勢も強まる中、1965年、民主党ジョンソン政権はトンキン湾事件を口実に北ベトナムに対する北爆を決行、ベトナム戦争に突入した。ベトナム戦争はドミノ理論に基づく東南アジアの共産化を防ぐという、西側諸国の盟主としてのアメリカの国家的責任が掲げられたが、内実は中国市場を失ったアメリカにとって東南アジアの自由市場はどうしても維持しなければならない(日本産業の復興のためにも)という側面もあった。それは民主党・共和党の枠を越えた国家的要請と考えられ、国民的な支持を受けていたが、政権のもくろみを越えて長期化し、南べトナム解放民族戦線(ベトコン)の激しい抵抗によって泥沼化するに従ってベトナム反戦運動が熱を帯びるようになり、民主党政権への逆風となっていった。
1968年 1月、ベトコンの旧正月(テト)攻勢が開始され、形勢は逆転、アメリカ軍は苦境に立った。民主党内部にもマッカーシー、ロバート=ケネディ(ケネディ大統領の弟)が停戦を主張しをジョンソン大統領は追いつめられ、3月31日にベトナム和平協議を提唱するとともに大統領選挙不出馬を表明した。この年、キング牧師についでロバート=ケネディも暗殺され、ジョンソンの後継としてハンフリーが指名された民主党大会は大混乱に陥った。世界的な学生運動(スチューデントパワー)の嵐はアメリカにもおよんでいた。
共和党ニクソン政権 その結果、同年末の大統領選挙では共和党ニクソンが勝利、民主党は政権から離れることになった。ニクソン政権はベトナム戦争をアメリカにとって有利なように終結させることをめざし、北ベトナムとの和平交渉を断続的に続けながら、カンボジア侵攻ラオス空爆を行い、かえって傷口を広げていった。それでもキッシンジャーの巧みな外交で中国とソ連を訪問し、再選後の73年にはベトナム戦争の停戦を実現しアメリカ軍のべトナム撤退を行った。ウォーターゲート事件のスキャンダルで大統領を辞任、後継の フォード大統領の時、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争はアメリカの完全な敗北として終了した。

ベトナム戦争後の民主党

 ベトナム戦争後の二大政党は、傾向としては民主党が外交では国際協調路線、内政では革新色を強め、社会保障など大きな政府を志向し、共和党は外交面では一国強国路線、内政では保守主義に立ち、小さな政府を志向するということがいえる。
カーター大統領 1976年の大統領選挙では現職の共和党フォードがニクソンに恩赦を与えるなどで人気がなかったので、民主党のカーターが当選した。ジミー=カーターは中央政界では Jimmy,Who? といわれ無名だったが、ジョージア州知事時代に労働者と黒人に支持された革新的な政治を行って大衆的な人気を博し、大統領当選後は軍事的力ではなく、「人権外交」を掲げ、パナマ運河の返還条約など、世界にその理念を広めようとした。しかし、80年のイラン大使館人質事件の対応失敗によって世論の批判を浴び、その年の大統領選挙で共和党のレーガンに大敗した。

民主党(6) 80年代から現代まで

1980年代は共和党のレーガン・ブッシュ(父)政権の下で長い野党時代を経験、92年にクリントンが民主党政権を復活させてレーガノミクスの失敗後の経済再建と、冷戦終結後の世界の舵取りに当たった。その後はブッシュ父の共和党政権の下でイラク情勢の行き詰まりなどの打開をめざし、民主党オバマ政権が生まれた。オバマ政権は医療保険制度の創設、TTP(太平洋地域自由貿易協定)などに取り組んだが、2016年選挙では民主党ヒラリー=クリントンが共和党トランプに敗れた。

共和党レーガン政権・ブッシュ(父)政権

 1980年代のアメリカ合衆国は、レーガンブッシュ(父)共和党政権が続いた。レーガンは「強いアメリカ」の再現と、「小さな政府」によって減税し、経済を活性化させることを掲げ、レーガノミクスといわれる財政・経済政策を打ち出した。それは法人税などの減税、規制緩和、社会保障費削減など、政府の経済介入を極力させ、企業に自由に競争させることによって経済を成長させるという新自由主義の経済学説に立つものであり、従来の民主党政権が維持していたニューディール政策を根本から否定するものであった。
レーガノミクスの失敗 当初はレーガノミクスは効果を現し、アメリカ経済の繁栄が回復されたかに見え、レーガンは再選され、さらにブッシュ(父)へと共和党政権が続いたが、この間、税と社会保障による富の再分配機能が弱まったために貧富の差の拡大が進行して社会不安が増し、税収も悪化、さらにレーガン→ブッシュの軍拡路線による財政支出が増大したために財政赤字が膨らみ、さらに貿易赤字が累積して、アメリカは双子の赤字に苦しみ、1985年には債権国に転落した。
東西冷戦の終結 この間世界は1989年の東欧革命から東欧社会主義圏が一気に消滅し、ブッシュ(G.H.W)父は、ソ連のゴルバチョフとマルタ会談を行い、冷戦の終結を宣言した。さらに1991年にはソ連の解体が現実となり、米ソ二大国の重しのなくなった世界では民族対立や宗教的対立など地域紛争が多発するようになった。共和党政権中枢にいる保守派(タカ派)である新保守主義(ネオコン)派が主導し、アメリカが唯一の軍事大国として単独行動主義(ユニラテラリズム)をとる場合も増えていった。

クリントンとオバマ

 レーガンおよびブッシュ(父)の永い共和党時代が続いた後、1992年の大統領選挙では、民主党は若さと清新なイメージでクリントンが現職ブッシュを破り、当選した。クリントン政権(1993~2001年)はアメリカ経済の立て直しに努め、IT時代の到来を背景とした好景気に見舞われたので雇用を増大させた。外交では人道的介入と称してNATO軍のボスニア介入を容認した。しかし、女性スキャンダルを起こし、弾劾裁判は免れたが人気を落とした。
共和党政権の復活 2000年の大統領選挙はまれに見る接戦となった結果、民主党候補ゴアは共和党のブッシュ(子)に敗れた。ブッシュ政権の2001年に9.11同時多発テロが起こり、アメリカは対テロ戦争に突入、アフガニスタン攻撃イラク戦争と「世界の警察官」としての海外派兵が続いた。共和党保守派が主導した戦争の時代に嫌悪感を感じるようになったアメリカ国民は、2008年にふたたび、清新なイメージと、最初の黒人大統領という話題性から、民主党のオバマを大統領に選出した。
オバマ大統領  オバマ政権は二期(2009~2017年)にわたり、オバマケアと言われた国民皆保険制度を実現したり、社会保障の充実や同性婚の容認などの進歩的な政策を打ち出し、プラハで核なき世界を実現させることを演説してノーベル平和賞を受賞するなど、理想主義的な政治を行ったが、キューバやイランとの国交回復やアフガニスタン、イラクなどに対する消極的な姿勢は、保守勢力に「強いアメリカ」の時代の復活を叫ばせる余地を与えた。
2016年大統領選挙  2016年大統領選挙では、2期を追えたオバマ政権を継承することを掲げて、民主党はクリントン元大統領の夫人であったヒラリー=クリントンを指名した。民主党左派のサンダースは貧富の差の解消などの社会価格を主張し、最後までヒラリーと指名を争ったが、ヒラリーは国務長官としての経験、初の女性大統領を目指すことなどを前面に打ち出し、結局、民主党は安定性を重視してヒラリー指名に落ち着いた。それに対して共和党のトランプは、ヒラリーを財閥などの既成勢力の代表として捉え、彼女のメール問題などを執拗に攻撃、さらにメキシコとの国境に壁を築くなどの過激な移民排除を公約として掲げた。外交や貿易では「アメリカファースト」だけを念頭に置き、世界の警察官や世界の金庫番としての役割はまっぴらごめん、という姿勢を明言している。
 大方の予想に反して、トランプが勝利(予定選挙人での)したことは、この大統領選挙でヒラリー=クリントンが女性であることへの期待感よりも、エスタブリッシュメントとして嫌われ(或いは飽きられ)ていたことを明らかにした。トランプ現象はアメリカの政治に時として現れる反知性主義、たとえば戦後だけで見てもマッカーシー旋風とか、レーガン人気などと同じ動きなのかもしれない。また、総得票数ではクリントンが上回っており、選挙人選挙でトランプが勝つという(最終的には2016年12月に判明)、アメリカの大統領選挙システム自体の欠陥が指摘されている。ルールに則った選挙の多数決で権力が移譲されるという民主主義のルールである以上、結局は結果が覆ることはないであろうが、今後は問題にされていくかもしれない。
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ノートの参照
第12章3節 ア.領土の拡大
書籍案内

C.A.ビアード
/斉藤眞・有賀貞訳
『アメリカ政党史』
1968 UP選書

ビアードは戦前のアメリカ憲法制定史の大家。この書は1928年までがビアードの原書の訳、それ以後1967年までを斉藤眞氏が加筆したもの。著述は古いが、アメリカ政党史を概観するには好適。


杉田米行
『知っておきたい
アメリカ意外史』
2010 集英社新書

第2章に二大政党の政策が逆転した経緯の説明があり、参考になる。