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新オスマン人

19世紀なかごろ、オスマン帝国の近代化をめざし、民族・宗教の違いを越えたオスマン人としての結束を主張した若手官僚らを指す。ミドハト憲法の制定を支えた。

 オスマン帝国の危機の中で、1839年に始まったタンジマート(恩恵改革)の冒頭で出されたギュルハネ勅令は、イスラーム教徒・非イスラーム教徒の法の前での平等などを宣言した。その後の宰相ムスタファ=レシト=パシャなどの改革派官僚によって進められたが、基本的にはオスマン帝国のスルタンによる専制政治体制を維持するためのものであり、立憲政治の導入や、自由な人権などを保障するものではなかった。  1853年~56年のクリミア戦争は、ロシアの南下をイギリス・フランスの軍事力で撃退することが出来たが、それを契機にイギリス・フランスはオスマン帝国内のキリスト教徒に対する不当な差別を改めるよう要求を強めた。それに応えて、1856年改革勅令を発布して、非イスラーム教徒にイスラーム教徒と同等の権利を与えることなどを定めた。いずれも外圧に押されてやむなく発布したというものであったので、現実には非イスラーム教徒に対する差別は解消されていなかった。

新オスマン人協会の結成

それに対して、タンジマートの不徹底な改革にあきたらず、西欧諸国の立憲政治を導入して、国民国家を実現することを主張する人びとが現れた。その代表的人物、ナームク=ケマルは、1865年にイスタンブルで、秘密結社を結成、専制政治に反対し立憲政治の導入、自由主義、国民国家の建設などを啓蒙する言論活動を開始した。彼らは「新オスマン人」といわれている。  彼らはオスマン帝国を構成する国民は、イスラーム教徒だけではなく非イスラーム教徒も含め、またトルコ民族だけなく、アラブ人やギリシア人、ユダヤ人、アルメニア人など帝国領土内に居住する人々と規定し、オスマン帝国の「領土」内に住む者をオスマン人と捉える「オスマン主義」を提唱した。  オスマン帝国のスルタン政府は彼らを弾圧したため、1867年に新オスマン人の主要なメンバーはヨーロッパに亡命、外国から盛んに宣伝活動をおこなった。その活動によって初めて民衆レベルで憲法や国民、自由などの概念が知られるようになった。また近代政治の啓蒙活動だけでなく、ロマン主義などの西欧の文学の紹介も行い、オスマン帝国における近代文学の成立にも貢献している。

ミドハト憲法

 彼らの運動は、1870年代にオスマン帝国宮廷内の若手官僚にも影響を与えるようになり、その指導的役割を果たしていたミドハト=パシャが宰相に就任したことにより、1876年、新スルタンのアブデュルハミト2世の即位と同時にミドハト憲法が発布され、立憲政治と共に、人権規定、宗教・民族の違いを越えた「オスマン人」を帝国臣民とする規定など、新オスマン人の主張が実現した。しかしこの憲法は、翌年の露土戦争の勃発を口実に、1878年に停止されてしまう。それか復活するのは1908年の青年トルコ革命においてであった。
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