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ミドハト憲法

1876年に制定されたオスマン帝国の近代的憲法。アジア最初の憲法であるが露土戦争勃発を理由に停止された。

 オスマン帝国の危機が続く中、1876年、オスマン帝国のアブデュル=ハミト2世の時、宰相ミドハト=パシャが起草した、近代的な憲法。1839年のアブデュル=メジト1世による、ギュルハネ勅令に始まるタンジマート(恩恵革命)は、1853年のクリミア戦争を機に後半に入り、一連の上からの近代化政策を完成させるものとして憲法の制定に至った。
 この憲法はアジアで最初の憲法であるという意義を有しており、オスマン帝国はこれによって西欧的な立憲君主国となったといえるが、翌年の露土戦争勃発を理由に停止されてしまった。

ミドハト憲法の内容

 制定当初は「基本法(カヌーヌ=エサーシー)」と言われ、のちにミドハト憲法と呼ばれるようになった。その主な内容は
・上院、下院の二院制。
・上院議員はスルタンが任命し、下院議員は人口5万人ごとに1名の割合で、直接の制限選挙で選出する。
・第113条 スルタンが危険と認めた人物は、国外追放にできる。(アブドュル=ハミト2世の要求で制定された)

アジア最初の近代的憲法

 1876年(明治9年)に制定されたオスマン帝国の憲法(いわゆるミドハト憲法)はアジア最初の憲法であった。次いで大日本帝国憲法が制定されたのが1889年(明治22年)。イランは1906年の立憲革命でイラン憲法を制定。中国は1912年の臨時約法が最初である。

ミドハト憲法の停止とその後

 しかしスルタンの権限として「国益に反する人物を国外追放にできる」という規定があり、アブデュル=ハミト2世は翌1877年露土戦争が始まるとこの規定を利用してミドハトを国外追放としてしまった。この憲法に基づいて帝国議会は2回開催されたが、露土戦争の敗北によるスルタン批判の強まりを恐れたアブデュル=ハミト2世は、1878年に議会を解散、憲法も停止して反対派を追放し、専制政治に戻ってしまった。その後、1908年に青年トルコが蜂起した青年トルコ革命が起きると、アブデュル=ハミト2世はミドハト憲法の復活を認めた。
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ノートの参照
第13章1節 ウ.オスマン帝国の改革