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ネイボッブ

イギリス東インド会社員でインドで蓄財して本国に帰った人々。

プラッシーの戦い(1757)からシパーヒーの乱(1857)までの百年間、東インド会社はインド貿易を独占する特権的商社としてだけではなく、徴税権や行政権を持つ植民市統治者として大きな権限を負かされていた。その間、社員は役得や賄賂によって富をたくわえ、本国に帰って贅沢な暮らしをする「インド成金」が多数現れ、彼らをネイボッブ nabob といわれた。これはインドでベンガル太守などの地方長官などの名士を意味するナバーブから派生した言葉である。
(引用)ベンガルやマドラスで東インド会社の社員として活躍した人たちは、現地の太守や大商人、有力者から多額の金品を受け取るなど、ありとあらゆる手段を使って私腹を肥やし、短期間のあいだに巨大な富を築いて母国に帰り、本国の人びとを驚かせた。もぐり商人から出発して1710年には大地主に成長し、国会議員として何度も議席を得たトマス・ピット(大ピットの父、小ピットの祖父)のような人は、このようなネイボッブの先駆者であった。・・・プラッシーの戦いのあと、1765年にディーワーニーを獲得してから、新興成金としての役割をネイボッブ達が果たす時代がはじまる。インド現地で大規模にしかも悪辣きわまる手段で作りあげた巨大な財産を退蔵してイギリスに持ち帰り、それを人びとに見せびらかしたのである。こうしてネイボッブと称されるインド成金の社員たちが続々と本国に巨大な富をもち帰るのに、東インド会社そのものの財政は赤字で、政府に借入れを願い出る。これが1760年代から70年代にかけての本国での会社の姿で、あせりとねたみにかられたロンドンの株主やその他の利害関係者は、東インド会社はディーワーニーを用いてインド民衆から無謀な誅求をはじめたではないか、会社内部の社員の腐敗がはなはだしいではないか、と非難をはじめた。(エドモンド=バークがベンガル知事クライヴや初代ベンガル総督ヘースティングスらを厳しく糾弾した)<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.180-189>

ネイボッブと腐敗選挙区

 東インド会社で資産を築いて本国に帰ったネイボッブの中には、本国で地所を買い、下院議員として政界に進出する人もいた。1790年ごろにはネイボッブが33名、東インド会社重役が12名が下院に議席をもっていた。どうして彼らが下院議員になれたか。
(引用)かれらはイギリス議会史に有名な腐敗選挙区を利用して、金の力で議員になったのである。イギリス下院議員の選出は小選挙区によっている。都市選挙区の場合、かつては栄えていた選挙区内にも、数十人しか有権者の住んでいないところも数多く出てきた。この人たちを金の力で買収するのである。金の力で買収することができる選挙区、これが腐敗選挙区といわれるもので、ネイボッブたちはここを足場に議会に出た。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.207-210>
 19世紀に入って産業資本家が台頭してくると共に、このような腐敗選挙区のあり方に激しい批判が加えられるようになった。第1次選挙法改正が行われたのは1832年のことであるが、東インド会社の商業活動の全面的停止がほぼ同じ頃の1833年であり、いずれも産業資本家の勝利と言っていい出来事であった(実際に産業資本家が議席を獲得するのは第2次選挙法改正の時からであるが)。
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ノートの参照
第13章2節 イ.植民地統治下のインドと大反乱
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浅田実『東インド会社』
1989 講談社現代新書