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インド大反乱/シパーヒーの反乱/セポイの乱

1857年、東インド会社インド人傭兵シパーヒーの反乱から始まり、全インドに広がった反英闘争。イギリスのインド統治を直接統治に転換させるとともに、本格的反英闘争の出発点となった。

 1857年、インドを支配する東インド会社シパーヒーと言われたインド人傭兵が反乱を起こし、たちまちのうちに北インド全域に広がり大反乱となった。反乱軍はムガル帝国の皇帝(当時は実権はなく名目的な存在になっていた)を担ぎ出し、反乱に正統性を与え、また兵士だけでなく民衆の多くが反乱に参加した。またこの反乱はヒンドゥー教徒とムスリムも共に参加した。驚愕した東インド会社は軍隊を補強して鎮圧にあたり、ようやくデリーを制圧してムガル皇帝を捕らえた。これによってムガル帝国は滅亡し、翌年イギリスは新たにインド統治法を制定して、東インド会社を解散してインドを本国の直接支配下に置いた。

反乱の経緯

・勃発 1857年5月10日、メーラトの東インド会社軍の基地で、シパーヒーが反乱をおこした。彼らに新たに支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の装填には薬包を使い、湿り気を防ぐために薬包の紙に牛脂・豚脂が塗られており、その端を歯で噛み切ってから装填することになっていた。それはヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物の牛脂を口に触れることは許されないことであり、イスラーム教徒にとっては汚らわしい豚の脂が口に触れることになり、我慢できないことであった。シパーヒーの中にはヒンドゥー教徒もムスリムもいたので、彼らにとってそれぞれの尊厳を傷つけられることに強い反発が生じたのであった。

Episode チャパーティーと予言

 シパーヒーの反乱が始まる前に、不思議な現象が起こった。北インドで主食とされている小麦粉を薄く焼いた“おやき”のようなチャパーティーが、村から村へ配られていったのである。それを配って歩いたのは各村の村番たちである。不思議に思ったイギリス人が訳をたずねても、彼らは何も答えない。そして反乱はチャパーティーが配られた村々に広がっていった。またそのころ、街や村で預言者が異口同音に「1757年、プラッシーの闘いでイギリスはインドに覇権を確立した。あれからちょうど百年、百年目の今こそイギリスは滅び、イギリス人は皆、海に追いやられて死ぬ!」と予言した。<長崎暢子『インド大反乱一八五七年』1981 中公新書 p.5-7>
・拡大 シパーヒーの蜂起はインド全体の大反乱のきっかけとなり、各地で民衆が反乱に加わった。シパーヒーを中心とした反乱軍は、デリーに進軍、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して、デリーに政権をうち立てた。また反乱軍には、イギリスのとりつぶし政策に反発した藩王国も加わった。インド西部の小国の女王ラクシュミー=バーイーもその例であり、彼女は反乱軍の先頭に立って闘い、インドのジャンヌ=ダルクと言われた。こうして反乱は全インドに拡がり、各地に反乱政権が生まれた。
・反撃 イギリスのインド総督カニングはボンベイ、マドラスの両管区から兵を召集、前年に反乱が終結していたイラン、太平天国の乱が下火になっていた中国から軍隊を移動させた。さらに、ネパールのグルカ兵(かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された)、パンジャーブのシク教徒(かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラーム教徒と根深い対立関係にあった)を味方にし、近代的装備にものを言わせて反撃に移った。
・終結 反乱軍とイギリス東インド会社軍の戦闘は、9月まで続いたが、東インド会社軍が態勢を整えたのに対し、反乱軍は横の連携もとれず、内部対立が生じ、またヒンドゥーとムスリムとの対立もあってまとまらず、デリーが陥落し、反乱は鎮圧され皇帝バハードゥル=シャー2世は逃亡したが、捕らえられてビルマに流刑になった。これによって、ムガル帝国の滅亡は名実ともに滅亡した。また、デリーは陥落したが、各地の農民反乱はさらに1年以上にわたって続いたが、1859年1月に鎮圧される。

反乱の名称

 この反乱をイギリスの支配者は「シパーヒーの反乱」(日本では「セポイの反乱」)と呼んでいたが、それはこの出来事をことさらにシパーヒーが起こした偶発的な出来事であったと強調し、民族反乱、独立戦争であったことを隠蔽する意図があった。しかし、反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、さらに広範な領主層から民衆までを含む民族的反英闘争であったという主張がなされるようになり、現在では「インド独立戦争」や「1857年インド大反乱」など定義されるようになった。<長崎暢子『インド大反乱一八五七年』1981 中公新書、森本達雄『インド独立史』1978 中公新書 など>

反乱の結果と歴史的意義

インドにとって 反乱はシパーヒーの蜂起に始まる東インド会社の植民地支配に対する民族的な戦いとなったが、各地の領主層・兵士・農民の戦いは組織的な連携はなく、近代装備を持つ会社軍によって鎮圧されてしまった。しかし、インドの民族的自覚を高め、インドの反英闘争の第一歩となった。イギリスのインド統治は官吏へのインド人の登用など、一定の妥協をしながら巧妙な分割統治によってその後約90年つづき、特に国民会議派の結成、第一次世界大戦後のガンディーの独立運動などにより1947年に植民地支配を終わらせる。
イギリスにとって 反乱の鎮圧に成功したが、それまでの東インド会社を通しての統治には限界があることを認識し、ついに1858年に東インド会社を解散させ、インド総督を頂点とした本国から派遣した官僚・軍隊による直接統治に切り換えた。その後、1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を樹立し、イギリス帝国主義の最大の基盤として、イギリスの植民地支配を続ける。

その頃世界は

 インド大反乱が起こった1857年は、イギリスのインド支配の第一歩となったプラッシーの戦いからちょうど100年後である。また、ヨーロッパではクリミア戦争(1853~56年)の終わった翌年、中国では太平天国の乱(1851~64年)、アロー戦争(1856~60年)の最中であった。また、日本の開国(1858年、日米修好通商条約)のころであり、明治維新の時期にあたっている。歴史学者羽仁五郎は、『明治維新研究』(1932~)などで、セポイの乱(インド大反乱)、太平天国の乱、明治維新をアジアにおける反封建、反植民地の民族運動として評価した。またセポイの乱、太平天国の乱という明治維新に先行するアジアの反植民地闘争を体験した欧米列強が、日本に対しては民族抑圧的な武力行使には出ずに、自由貿易の強要という外交交渉を優先させたとも説いている。

Episode イギリスの残虐な捕虜処刑

(引用)反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、数人ずつ束ねて大砲の前に立たせ、弾丸もろとも吹っ飛ばすとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。アラーハーバード近郊の街路に沿うて、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、・・・。また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。筆者はここで、なにも百年前のイギリス人の恥ずべき蛮行を誇張してまで告発するつもりはない。これらの行為は、イギリスの軍人じしんが‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。<森本達雄『インド独立史』1978 中公新書 p.47-78>
 ベトナム戦争やイラク戦争の原型がここに見られる。
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ノートの参照
第13章2節 イ.植民地統治下のインドと大反乱
書籍案内
インド大反乱 表紙
長崎暢子
『インド大反乱一八五七年』
1981 中公新書
インド独立史 表紙
森本達雄
『インド独立史』
1978 中公新書